2012年12月30日日曜日

2012年の好きな音楽作品、好きな順に30作(30-25位)

 ツイッターで「ベスト・アルバム2012」を発表する人が多く、私もしてみんとてするなり。しかし、「ベスト・アルバム2012」などと大風呂敷を広げてランク付けするのは、何か傲慢さがあるように常に思っています。その傲慢さをなるべく避けてミュージシャンに敬意を払うため、私は「好きな音楽作品を、好きな順に並べる」ということにします(批評性のない感想文は読んでも得るものがないと思います…)。

30. CRZKNY - Struggle Without End / ABC EP (Atomic Bomb Code)




 トラックスマンのDa Mind Of TraxmanDJラシャドTeklife Vol 1: Welcome To The Chi(ラシャド自身のレーベル、<リット・シティ・トラックス>から。現在はダウンロード販売のみ。「スピン」のサイトでフル音源がストリーミングできる)という決定打の登場によって、かつては「マージナル」であった、シカゴの歪なビート・ミュージックは、世界中のトラック・メイカーとダンス・フロアに衝撃を与え、絶大な影響力を誇った。
 ジュークの影響力は、ここ日本でも非常に大きい(あの保守的で、目配せのうまい「ミュージック・マガジン」が特集を組むくらいなのだから(笑))。<プラネット・ミュー>からのコンピレーション、Bangs & Worksシリーズの二作は各ショップでロング・セラーを続けているらしい。食品まつりを筆頭にジュークのトラック・メイカーもどんどん増えており、あのtofubeatsもジュークに影響を受けたと思われるトラックを含むミックステープを上梓した。


 さらには日本産ジュークのコンピレーション『Japanese Juke&Footworks』もBandcampにて無料で配信されている。



 前置きはさておき、その『Japanese Juke&Footworks』にも参加している広島のジューク・アーティスト、CRZKNY(クレイジーケニー)は、ジュークのビートに渦巻く異様な(ブラック・)パワーを抵抗("We will resist"とCRZKNYは宣言する)へと差し向ける。とは言っても、ここに挙げた怒り狂う二作のEPはほとんどジュークではなく、ミニマル・テクノ(『ABC EP』の「Escape」はジェフ・ミルズ直系のトラックだ)や、ダブ・テクノ、ダブステップといった音楽を独自に昇華させたトラック集である。
 中でも、かの原発事故への怒りを存分にぶちまけた『Struggle Without End』がブチギレている。ジュークとナードコアとプレフューズ73を力づくで繋ぎ合わせるようなヴォーカル・チョップが特徴的で、アナウンサーの声、反原発デモ参加者の演説や怒号、「放射性物質は健康に影響はない」と語るどこぞの教授の言葉から任侠映画のセリフ等々がサンプリングされている。ジャケットはミュート・ビートの 『ラヴァーズ・ロック』を彷彿とさせる。
 ちなみに、CRZKNYを知ったのは「Make Believe Melodies」の記事でだった。

29. Jam City - Classical Curves



 ダンス・ミュージック、ひいてはエレクトロニック・ミュージックのリスナーやライターはジャンルを細分化したり、新しいジャンルに名前をつけたりするのを楽しむ性癖があるように思える(私もその一人かもしれない)。新しい音には、新しい名前がつけれられる。新しくなくても、それは「リヴァイヴァル」と名づけられる。
 ジャム・シティ=ジャック・レイサムの音楽は、間違いなくカッティング・エッジだ。しかし、ジャム・シティの音楽は一体どんなジャンルへ仕分ければいいのだろうか?
 シンセ・ポップ風の奇妙なほど明瞭なウワモノと、せわしなく駆けずり回るメタリックなビートがリスナーに突き付けられる。ダンス・ミュージックのようで、そう簡単には踊らせてくれない、複雑に構築されたエレクトロニック・ミュージック。往年のハウスのキラキラとした意匠をチラ見せしながら、居心地の悪い恐ろしいボーカル・サンプルや、インダストリアルなパーカッションが暴力的に挟まれる。
 特に二曲目の"Her"、そしてシームレスに連なる"The Courts"が白眉で、ここに上記した要素が全て詰まっており、初めて聴いた時に震え上がった。悪意のこもった、引き攣った笑みを浮かべたダンス・ミュージック。
 不穏なアートワークも印象的。<ナイト・スラッグズ>から。


28. TNGHT - TNGHT



 ネットの大海で育まれたラップ・ミュージックの急先鋒、トラップの充実した成果。ハドソン・モホークとルニスによるTNGHTは、サウスのバウンシーでナスティな感触をそのままに、さらにトラップを洗練させたように思える。<ワープ>からリリースされた、たった5曲のインスト・ヒップホップが収録されたこのEPは正しく衝撃だった。
 "Higher Ground"が素晴らしい。安っぽいハンドクラップ、性急なボーカル・ループ、ダーティな電子ホーン、遅く重たいバスドラムと突如現れるジューク風のチキチキとした複雑なビートが絶妙に絡み合っている。今年の私の最も好きなトラックの一つ。


27. Captain Murphy - Duality



 キャプテン・マーフィーとは誰なのか? タイラー・ザ・クリエイター? アール・スウェットシャート? フライング・ロータス?
 フライング・ロータスとアールのコラボレーション・ソング"Between The Friends"にフィーチュアされた謎のラッパー、キャプテン・マーフィーが衝撃のミックステープDualityをリリースした際、そのようにひとしきり盛り上がった(私は声の低さからタイラー・ザ・クリエイターだと思っていた。結局、フライング・ロータスだったわけなのだが…)。



 Dualityの衝撃は正体不明、経歴不明のラッパーが突如ハイ・クオリティなミックステープをリリースしたことにあった。初めて聴いた際にはとても驚いた(だってフライング・ロータスがプロデュースしているのだから(笑))。音楽もさることながら、映像付きでリリースされたDualityは、そのサイケデリックでフリーキーな映像もなかなかショッキングだった
 半分ほどはフライング・ロータスの手になるトラックで、ダーティで不穏であったり洒脱であったりと様々な顔を見せる。トラックにしろ、ラップにしろ、映像にしろ、人を喰ったようなイタズラっぽさがあり、とても楽しんで聴いた。それにしても、フライング・ロータスはラップがうまいなあ…。もし次作もあれば聴いてみたい。

26. Laurel Halo - Quarantine



 ジェシー・ウェア、ジュリア・ホルター、そしてグライムス(さらに、きゃりーぱみゅぱみゅ?)。今年は音楽性はバラバラだが多くの優れた女性ミュージシャンたちが優れた作品を出したように思う(彼女たちはどこかキャラクタリスティックだ)。そのように思う事自体、音楽が未だマッチョなものであることを表しているが…。
 ローレル・ヘイローのカッティング・エッジなエレクトロニック・ミュージックはなかなか衝撃的だった。ビートは霧の向こうでモヤモヤと鳴っているか、ビートがない曲も多い。ハーシュノイズやホワイトノイズを縦横無尽に操り、天上の方で彼女の声が鳴り響いている。
 彼女の音楽は人を震え上がらせる。"Carcass"のイカれっぷりが印象的で、スロッビング・グリッスルがネット・サーフィンしているようなトラックに、ローレル・ヘイローの金切り声混じりの歌が覆いかぶさる。恐ろしい。この恐怖が永遠に続くかと思えば、突如曲はぶつ切れで終わる。
 ジャケットはタイムリーにも個展が開催されている会田誠<ハイパーダブ>から。


25. Raime - Quarter Turns Over A Living Line



 <ブラッケスト・エヴァー・ブラック>からダーク・アンビエントの傑作。
 野田努さんがDOMMUNE内の「ele-king TV」にて紹介していたので、彼らのことを知った。野田さんによれば、近年の音楽の重要なキーワードとして「ゴシック」があるそうだ。ベリアル、アンディ・ストット、ティム・ヘッカー&ダニエル・ロパティン、シャックルトンなどを「ゴシック」と十把一絡げにするのは少し無理があるが、しかし、通底するゴシックな雰囲気があることは確かである。「居場所のない者が逃避する場所がゴシック」であり、それは「厨二病」のような音楽であるとも、野田さんは言っていた。
 ところで、「ゴシック」というキーワードは、ウィッチ・ハウスや、レイダー・クランらのオカルト趣味にも接続できる。詳しくは国分純平さんの素晴らしいブログを読んでほしい。
 レイムは逃避的な音楽だ。音楽からヴィジュアル・イメージから正しく「ゴシック・ミュージック」だろう。冒頭のヘリコプターが近づいたり離れたりするような音、あるいは船のモーター音や蒸気船の音が加工されたような音は、逃避の可能性とその不可能性の間を揺らいでいるようだ。ベリアルの音がディストピアめいた都市での一時的な逃避だとすると、レイムはディストピアを正面から突きつけるような残酷さを持っている。しかし、それに酔うのだ。これは半ばマゾヒスティックな陶酔かもしれない。
 などと書いていると、野田さんのレビューがアップされていた


2012年11月17日土曜日

Jamie xx, Far Nearer / Beat For―光さすダブステップ




 ロンドンのインディ・ロック・バンド、The xxのトラックメイカー/プロデューサー、ジェイミー・xx(本名ジェイミー・スミス)による初のソロシングル。ジェイミーはバンドの活動に留まらず、DJやリミキサーとしても活動している。ギル・スコット・ヘロンの復活作にして遺作、I'm New HereをリミックスしたWe're New Here(XLレコーディングズ)も話題となった。彼はアデル、レディオヘッド、フォー・テットやフローレンス・アンド・ザ・マシーンのなどのリミックスも手がけてきた売れっ子だ。

 このFar NearerとBeat Forという二曲を収めたシングルは、グラスゴーでダンス・ミュージックをリリースしているインディ・レーベルであるNumbers.から2011年にリリースされた。限定の12インチ盤は即完売したが、現在はiTunes Storeなどでダウンロード版を購入できる。

 両曲とも素晴らしいビート・ミュージックだ。Far Nearerは開放的で快楽的な7分弱のダンス・ミュージックで、ダブステップのビートを基調にしながらその先、ポスト・ダブステップの明るみへ突き抜けた傑作。まるで夜明けの日が注ぐような電子音が通奏低音で、可愛らしいスティール・パンの音やソウルフルなボーカル・サンプルがそれに彩りを加えている。なんともトロピカルなダブステップだ。



 Beat ForはBurialの音楽に強い影響を受けているであろう、クールなダブステップ。激しく攻撃的なビート、奇妙にうねるボーカル・サンプルが実にダークである。しかしBurialのような徹底的な殺伐感までは至らず、少しポップな親しみやすさやエモーショナルな感覚があるのがジェイミーらしいところだろうか。


2012年11月11日日曜日

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(ポール・トーマス・アンダーソン 2007)―カメラ・アイと家族の希求

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の「カメラ・アイ」


 映画を物語内容や登場人物の「キャラクター」のみによってのみ語る批評に意味は無い。映画とは、私たちがこの眼で観る映像である――そのことからひとまず始めよう。映像は私たちが知覚できるよりも多くのことを常に語っているのだから、それに耳を傾けてみよう。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映像、構図はとても美しいのだから。

 私たちが映画を観るとき、その映画が「現実的」なものであればあるほど、そこに映し出される映像に引き込まれ、のめり込み、その映画の内部に私たちが立っているかのように錯覚するだろう。その映画がまるで、自分の目の前で展開される現実のように思い込むだろう。しかし、言うまでもなく鑑賞者である私たちと映画内の現実とには幾次もの隔たりが存在している。私たちは何かしらのメディア(それはカメラであり、フィルムやDVDなどの映像メディアであり、スクリーンやテレビ画面であり、究極的には私たちの眼というメディアである)を通して映画を観ざるをえないのであり、そこには空間的、時間的な隔たりが幾層にも横たわっている。
 本作のカメラワークは、そういった鑑賞者と映画との絶対的に縮まることのない距離感を感じさせるものになっているかのように思える。なぜなら『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のカメラは冷徹で、厳しく、どこまでも客観的に物語を捕捉しているからである。登場人物たちの誰に肩入れすることもなく、映画の内的現実に対して一定の距離を保ち、カメラはあくまでも映画を外部から眺めている。そのことをカメラが自ら語りだすシーンが二、三回ほどある。それは、液体がカメラのレンズにかかる場面である。通常、レンズに液体がかかるような撮影手法は避けられるだろう。なぜなら、レンズに液体がかかったり水滴がつき、それがスクリーン上に映しだされてしまえば、観客はカメラ・レンズの存在を否応なく意識してしまい、映画への没入が妨げられるからだ。しかし、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』においては、カメラのレンズに液体がかかる演出が数回ある。これは、意図的な演出だろう。カメラのレンズという媒介が存在することを観客に想起させ、観客をあくまで『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映画的現実から引き離そうとする演出である。


ダニエルが希求する家族、血


 さて。私たちは「カメラ・アイ」から一旦眼を離し、物語内容へ立ち入っていくことにしよう。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公、ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)は石油の採掘に全てを賭け、物語を通して富を得るとともに真に欲するものを見失っていく。ダニエルはどこまでも強欲で富を追い求めるが、しかし、彼がなぜそこまで強欲であるのか、なぜそこまで金に執着するのかはこの映画では全く語られない。なぜだろうか。それは、アメリカン・スピリットやフロンティア・スピリット、「古き良きアメリカ」といったアメリカ人が懐旧するものへ批判的な眼差しを向け、それらが(一面では)空疎で虚無的なものであることを告発するためではないだろうか。

 ダニエルの過去という中間項を抜きさってこの映画で描かれるのは、ダニエルの人間不信、強欲さ、そして血族への異様な執着である。彼はおそらく物質的なもののみを崇拝する唯物論者である。彼は人間も神も信じないが、石油と血の繋がりのみを信じているからだ。
 しかし、真の家族を探し求めるダニエルはどうやってもそれを得ることができない。彼が事業のパートナーとする二人、つまり彼の息子H・Wと弟を名乗るヘンリー(ケヴィン・J・オコナー)とは、ダニエルは血族ではない(そしてダニエルは二人との繋がりを自ら断ち切る)。それは皮肉であり、悲劇的である(しかし、家族を求めるダニエルにはなぜ妻や恋人がいないのだろうか。この映画には女性がほとんど出てこない。ダニエルが同性愛者であるという指摘も間違いではないのかもしれない。そうであれば、より一掃悲劇的である)。また、彼は石油のパイプラインを通すため、確執関係にあるイーライ・サンデー(ポール・ダノ)という福音派の宣教師に侮辱的な洗礼を受ける。その洗礼によって、イーライとその信者たちはダニエルを「兄弟」と呼ぶ。ここでも彼が得るのは偽物の家族である。
 ダニエルが家族を、すなわち「血」を希求すればするほど、それは滑稽なまでに遠ざかっていき、偽物しか得ることができない。唯物論的なものを信じているにも関わらず、である。


『ゴッドファーザー PART II』の変奏として――ダニエルとマイケル


 上記のような「カメラ・アイ」の客観性や冷徹さ、そして富を得ながらも家族を希求しそれを失っていく男。この二点から、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は『ゴッドファーザー PART II』と比較されるべきだろう。いや、むしろ『ゴッドファーザー PART II』の変奏と言ってもいいのかもしれない。『ゴッドファーザー PART II』のおけるマイケルは、コルレオーネ・ファミリーの存続のためを思って冷徹な運営方法を用い、同胞たちを自ら切り捨てていくが、それによって「ファミリー」の結束は崩れていく。一方で、ないがしろにしていた妻を始めとする自身の家族とも疎遠となっていく。マイケルは、遂に兄フレドをも殺してしまう。
 家族(血)を希求しながらも家族を失い、得たものは富と「汚れた血」である――『ゴッドファーザー PART II』のマイケルと『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエルはこの点で相似形をなしている。『ゴッドファーザー PART II』において、若きヴィト・コルレオーネが得たものを、マイケルとダニエルの両者は共に手に入れることはできなかったのである。すなわち、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は過去のない、より悲劇的で批評性にあふれた『ゴッドファーザー PART II』の冷酷な変奏である。そして、『ゴッドファーザー PART II』に比肩するような傑作である。

2012年11月4日日曜日

女と男のいる舗道(ジャン=リュック・ゴダール 1962)―言葉を裏切り、言葉に裏切られながら自分の人生を生きる

 特別観たいものが無い時はゴダールかヒッチコックの映画を観てしまう。




 『女と男のいる舗道』はナナ(アンナ・カリーナ)という舞台女優志望の女の子が夫も子供も投げ打って女優を目指すものの、娼婦へと転落してしまう物語。エミール・ゾラの『ナナ』の物語を反転させた、皮肉めいた話である。そのゾラへの言及や、冒頭で引用されるモンテーニュ、後半に登場するポーの小説(ボードレール訳)、直接的に引用されるカール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』など、ゴダールお得意の文学・哲学的引用が多数埋め込まれている(そういえば、カール・ドライヤーの映画は『吸血鬼』しか観たことがない)。

 映画のコードを打ち破るような斬新なカメラワーク(例えば、映画の始め、ナナは元夫と会話しているのだが、カメラはナナの後頭部しか映さない)、ワンシーン・ワンカットが続くモンタージュの少ない構成など、技法的に気になる点が非常に多い。この映画において、カメラの移動は極力抑えられている。一方でジュークボックスから流れる音楽に合わせてナナが踊る場面などでカメラは自由に動く。その静と動の対比が鮮やかである。また、鏡越しに役者を写すなどの技法もわざとらしいくらいに多い。


 映画の冒頭、次のような言葉が引かれる。
「他人に自分を貸すこと。ただし自分を与えるのは自分にだけ限ること」
このモンテーニュの警句は、映画を最後まで観ると意味を持ってくる。ナナは役者として自分を他人に「貸す」のではなく、売春婦となることで自分を他人に「与え」てしまった。魂を売ってしまったのだ。そこにこそナナの悲劇の原因がある。だから、この映画の原題、Vivre sa vie(自分の人生を生きる)というのも映画を全て見終えて初めて有意味となる。ナナは自分の人生を生きただろうか? もちろん答えは否である。邦題の『女と男のいる舗道』は美しいタイトルではあるけれども、そういう意味では最悪だと思う。ストレートに『自分の人生を生きる』とした方が効果的ではある。

 後半、アンナ・カリーナとゴダールの哲学における師ブリス・パランが哲学的な問答をするシーンが登場する。このシーン、脚本はなく、即興的な対話をカメラに収めたものであるらしい。この対話が非常に素晴らしいのだ。少し引用してみよう。
「でも、なぜ話をするの? 何も言わずに生きるべきだわ。話しても無意味だわ」
「本当にそうかね?」
「わからない」
「 人は話さないで生きられるだろうか」
「そうできたらいいのに」
「いいだろうね。そうできたらね。言葉は愛と同じだ。それ無しには生きられない」
「なぜ? 言葉は意味を伝えるものなのに。人間を裏切るから?」
「人間も言葉を裏切る。書くようには話せないから。だがプラトンの言葉も私たちは理解できる。それだけでもすばらしいことだ。2500年前にギリシャ語で書かれたのに。誰もその時代の言葉は正確には知らない。でも何かが通じ合う。表現は大事なことだ。必要なのだ」
「なぜ表現するの? 理解し合うため?」
「考えるためさ。考えるために話をする。それしかない。言葉で考えを伝えるのが人間だ」
「難しいことなのね。人生はもっと簡単なはずよ。『三銃士』の話はとても美しいけど、恐ろしい」
「恐ろしいが意味がある。つまり…人生をあきらめた方がうまく話せるのだ。人生の代償…」
「命がけなのね」
「話すことはもう一つの人生だ。別の生き方だ。わかるかね。話すことは、話さずにいる人生の死を意味する。うまく説明できたかな。話すためには一種の苦行が必要なんだ。人生を利害なしに生きること」
「でも毎日の生活には無理よ。つまりその…」
「利害なしに。だから人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。日常生活から別の人生への飛翔。思考の人生。高度の人生というか。日常的な無意識の人生を抹殺することだ」
「考えることと話すことは同じ?」
「そうだと思う。プラトンも言っている。昔からの考えだ。しかし思考と言葉を区別することはできない。意識を分析しても思考の瞬間を言葉でとらえられるだけだ」
ここでパランが言うように、常に言葉は人間を裏切るけれども、他方で「人間も言葉を裏切る」のだ。私たちは、考えや心情をそっくりそのまま言葉へとトレースすることはできない。これは非常に悲劇的なことだ。だけれども、私たちは話さねばならない。そのために「仕方なく」「ありものの」言葉で「間に合わせる」。考えや心情にぴったりと合わないけれども、「一時しのぎ」の言葉で「代用」する。時に沈黙にほだされながら…。それは何と言葉に対して不誠実な態度だろうか。だから、言葉が人間を裏切った分だけ人間も言葉を裏切るのだ。人間と言葉は許嫁のようなものだ、と思う。ある契約関係で結ばれ、関係を解くことはできない。人間は言葉を抱いて生まれ、言葉とともに死んでいくのである。

 これは、リオタールが『文の抗争』で問題としたこととつながってくる、と思う。リオタールは「抗争」という言葉で、争いの当事者どうしの議論に同じ判断規則や文法規則が適用できない状況を指している。そして、「不当な被害」という言葉でもって、規則が存在しないために償うことのできない、さらにはその被害の存在を立証することもできない被害のことを指している。不当な被害の「犠牲者」は、それについて「語ることも語らないこともできる」という能力すら喪失している。「語らないでいることができる」ことと「語ることができない」ことは厳格に区別されるのである。リオタールにとって、沈黙は一つの言葉でありうるからだ。この抗争と不当な被害を巡る議論はダイレクトにホロコーストの問題へと接続される。
 ところで、リオタールは文ないし言語に絶対の信を置くが、そもそも人と言葉との関係も抗争の状態にあるように思える。人と言葉は、常に=既に相互に裏切り合う運命にある。この恐ろしい共依存関係において生じた不当な被害を法廷に持ち込むことは不可能である。だからこそ「人生をあきらめた方がうまく話せる」に違いない。パランの言う通り、饒舌の代償は人生への諦念である。しかしこの抗争と不当な被害という言語化不可能な、存在の立証が不可能な何か――これを人生においてどう扱うかであらゆるものに対するアティチュードは変化していくだろう。それこそ人生そのものが転回していくような変化が訪れるはずだ。

愛なき不完全な備忘録 Nov 4, 2012―ブルースはどうやってみつける?

Oct 27
Nag Ar Juna × mitsume × JAPPERS / 3 BANDS JOINT RELEASE PARTY(Nag Ar Juna, ミツメ, JAPPERS, SUPER VHS @幡ヶ谷forestlimit)


 ミツメのライブを観てみたかったので行ってみた。予約は定数に達していたので、当日券を頼みに早めに幡ヶ谷へ向かった。forestlimitへ来るのは一年ぶりくらいだ(ホライズン山下宅配便のワンマン以来)。高速で行き交う車と排ガスに彩られた、まるでディストピアを現実化したかのような甲州街道沿いを左に折れると、飲み屋に紛れてforestlimitはある。オープンすると、あの狭いforestlimitは瞬く間に超満員となった。スカートの澤部渡さんがいたので「ファンです」と声をかけてみた。すると側にいた女の子も「私もです」と言った。澤部さんは最早インディ・ロック・スターである。
 ミツメ以外の他の三バンドは全く知らなかった。SUPER VHSはちょっとチルウェイヴっぽい気怠さを漂わせた今風エレポップ。JAPPERSはザ・ラーズのようなブリティッシュ・ロックやポップスの影響を隠そうとしないバンドだった。二組とも英語で歌っていたので、日本語で歌えばいいのに、と思った。

 ミツメのライブは始めドラムがもたっており、あの少し不安定な(しかしそれが魅力でもある)ボーカルとも相まって「大丈夫かな?」と心配になった。とは言え、傑作『eye』で完成された音をそのままライブで表現しており、演奏の完成度と密度は非常に高いと思った。1stからの曲はなく、全曲『eye』からだった。私としては、レコードとほとんど違わぬ演奏にライブバンドとして魅力を感じるかと言えば少し疑問だ。ただ、淡々と進んでいく演奏に仄かな熱情は確かに感じられたし、スリリングに絡み合う二本のギターのプレイにはワクワクした。
 疲れてしまったので、Nag Ar Junaの演奏の途中で帰ってしまった。外には澤部さんが立っていた。




 ミツメの『eye』は本当に傑作だと思う。シンプルなギターポップであった1stから一気に飛躍し、別次元の独自のサイケデリック・ロックを打ち立てている。「Disco」は1stの曲たちに近く、いわゆるネオアコ風ではある。が、ダブを独自に解釈しサイケデリックへと接続させた素晴らしい「春の日」をアルバムの一曲目へ持ってきたことは、ミツメの変化を宣言するためだろう。
 アルバム発売に先駆けて公開されていた「cider cider」は紛れも無い名曲だ。これを初めてsoundcloudで聴いたときは非常に驚いた。即かず離れず絡み合う二本のギターのミニマルなフレーズのダイナミックさ、キュートでスペイシーな音で鳴るシンセサイザー…ニュー・ウェイヴィだが今っぽさもひしひしと感じる。一瞬で虜になった。



 「fly me to the mars」のカセット(後に7インチ・シングル)に収録されていた「煙突」は別ヴァージョンになっている。『eye』についてはまた詳しくレビューしてみたい。


Oct 30
アルファヴィル(ジャン=リュック・ゴダール 1965)


 私の頭が悪いのかググって解説を読まなければ作品内の設定が理解できなかった。映像・編集はゴダール節全開。

Nov 3
武蔵大学 白雉祭(倉内太、キウイとパパイヤ、マンゴーズ、KETTLES、T.V.not january、ザ・なつやすみバンド、スカート、画家、俺はこんなもんじゃない、片想い、ズボンズ @武蔵大学江古田キャンパス)


 武蔵大学のライブイベント。上記の通り豪華な面子で、しかもフリーライブ。同じ江古田のプチロックとはライバルか? 今日もプチロックは開催されているが、行っていない。今年は一日も行かなかった。なんとなく。
 快晴だった。江古田駅を挟んで日芸とは反対側にある武蔵大学。大学の校舎は非常に綺麗で近代的だが、学園祭自体は人が少なく、大学生たちはなんともチャラい感じの者が多かった。それは少し悲しい感じを私に与えるものではあった。ライブ・ステージは地下のスタジオと野外のステージに分かれていた。この日観たのは、倉内太、キウイとパパイヤ、マンゴーズ、ザ・なつやすみバンド、スカート、片想い。俺はこんなもんじゃないは『2』を愛聴していたし、ライブを観たことがなかったので観たかったが、泣く泣く片想いを取った。画家も久しぶりに観たかったが、観なかった。

 一番手、地下のスタジオで倉内太さんを観た。三鷹おんがくのじかんで観た時と同じように黒いロングTシャツを破り、同じようにポエムを詠んだ。青春期の焦燥と恋愛にまつわるモヤモヤを激情にまかせてシャウトしながらも、フォーキーでブルージーでロックンロールなギタープレイは非常に丁寧。伴瀬朝彦さんや三輪二郎さん、牧野琢磨さんとのギターバトルが観てみたい。表現者としての芯が非常に強いというか、とにかく「人間力」のある人だ。言いすぎかもしれないが、まるで遠藤賢司みたいだ。変わった人である。トリックスターのよう。時にユーモラスに、時に激しく歌う。
 「ブルースがみつからない」という曲が最高だ。今はこの動画よりもずっと洗練された演奏をする。


 それから外のステージでキウイとパパイヤ、マンゴーズの素晴らしい演奏に酔いしれた。晴れ渡った空のもと、野外で聴くには最高だった。ボーカルの方の民謡風の節回しやレゲエのビートを重たく刻むドラムの素晴らしさに感動した。またライブへ行ってみたい。物販で「東京の演奏」を主催し、とんちれこーどを手伝っているこっちゃんに久しぶりに会った。以前より元気ハツラツとしていたので良かった。ceroの柳さんの絵があしらわれた片想いのTシャツを買った。

 野外ステージのトリは片想い。六月のoono yuukiとの対バン以来に観た。サックスの遠藤里美さんがおらず、NRQの牧野琢磨さんがギターで参加していた。
 演奏が始まって驚いたのは、演奏が非常にタイトで引き締まっていることだった。もともとキメるところはしっかりとキメるタイトさはあったものの、そこにルーズな感覚が紛れ込んでいた。以前までの片想いはちょっとスカスカで、ちょっと演奏にズレがあって、悪い言い方をすればちょっぴり下手で、それがなんともキュートでユーモラスで楽しい気持ちにさせてくれるものだった。だが、この日の片想いは恐ろしいほどタイトなファンク・バンドだった。
 「やったことのない曲を練習してきたので、それをやります」と片岡シンさんが言ったので、「新曲!?」とワクワクしてて始まったのはなんとスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「ランニン・アウェイ」。驚いた。そしてこの時の素晴らしい演奏が決定的に片想いの演奏の変化を物語っていたと思う。オラリーさんの歌は堂々たるものだったし、あだちさんのドラムと伴瀬さんのベースが打ち出すビートは骨太で身体の芯にまで響いた。本当に感動した。完全に片想いの曲だった。
 とにかくこの日の片想いはすごかった。夕闇の中、どこからともなくものすごく多くの観客がステージの周りに集まりだし、歓声をあげ、笑い、踊り、手拍子していた。違うバンドかと思うほどファンキーで格好いい片想いを聴きながら。いつも通りのちょっとグダグダしたMCとも寸劇ともつかないものを挟みながら(この日はイッシーさんが全然喋らなかったけれど)、たくさんの聴衆を、たぶん片想いを知らない人たちも含めて虜にしていた。本当、モンスターバンド。
 曲は何をやったのかすっかり忘れてしまった。たしか、「東京フェアウェル」「カラマルユニオン」「踊れ! 洗濯機」「山の方から来てくれればいいのに」をやっていたと思う。もちろん「踊る理由」もやった(僕の好きな「V.I.P」や「管によせて」「すべてを」はやらなかった)。
 そういえば、「カラマルユニオン」という曲名はアキ・カウリスマキの「カラマリ・ユニオン」にちなんでいるんだろうな。良い曲。

2012年10月26日金曜日

映画などの愛なき不完全な鑑賞備忘録 Oct 26, 2012

日時不明
・8 1/2(フェデリコ・フェリーニ 1963 早稲田松竹)
・青春群像(フェデリコ・フェリーニ 1953 早稲田松竹)
・ゴッドファーザー(フランシス・フォード・コッポラ 1972)
・ゴッドファーザー Part II(フランシス・フォード・コッポラ 1974)
・ゴッドファーザー Part III(フランシス・フォード・コッポラ 1990)
・カリガリ博士(ローベルト・ヴィーネ 1920)
・天井桟敷の人々(マルセル・カルネ 1945)
・大いなる幻影(ジャン・ルノワール 1937)
・ブレードランナー(リドリー・スコット 1982)
・未来世紀ブラジル(テリー・ギリアム 1985)
・欲望(ミケランジェロ・アントニオーニ 1964)
・機動警察パトレイバー2 the Movie(押井守 1993)
・メトロポリス(フリッツ・ラング 1927)
・暗黒街の弾痕(フリッツ・ラング 1937)
・駅馬車(ジョン・フォード 1939)
・赤ちゃん教育(ハワード・ホークス 1938)
・自転車泥棒(ヴィットリオ・デ・シーカ 1948)
・無防備都市(ロベルト・ロッセリーニ 1945)
・殺しの烙印(鈴木清順 1967)
・ツィゴイネルワイゼン(鈴木清順 1980)
・陽炎座(鈴木清順 1981)
・七人の侍(黒澤明 1954)
・隠し砦の三悪人(黒澤明 1958)
・ショーン・オブ・ザ・デッド(エドガー・ライト 2004)
・第三の男(キャロル・リード 1949)
・ライフ・オブ・ブライアン(テリー・ジョーンズ 1979)
・メメント(クリストファー・ノーラン 2000)

May 9
・旅芸人の記録(テオ・アンゲロプロス 1975 早稲田松竹)

May 17
・永遠と一日(テオ・アンゲロプロス 1998 早稲田松竹)
・霧の中の風景(テオ・アンゲロプロス 1988 早稲田松竹)

Jul 2
・國民の創生(D・W・グリフィス 1915)

Jul 11
・戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン 1925)
・意志の勝利(レニ・リーフェンシュタール 1934)

Jul 15
・雨月物語(溝口健二 1953)

Jul 18
・鉄男(塚本晋也 1989)


Aug 20
・ダークナイト ライジング(クリストファー・ノーラン 2012 新宿ピカデリー)
・アベンジャーズ(ジョス・ウィードン 2012 新宿ピカデリー)

Sep 29
・サカキマンゴー&リンバ・トレイン・サウンド・システム アフリカ直送ツアー(青山月見ル君想フ)

Sep 29
・鋤田正義展 Sound & Vision(東京都写真美術館)


Oct 7
・川本真琴「フェアリーチューンズ」レコ発記念公演~風鈴をしまいましょう(w/住所不定無職、スカート、三輪二郎&マザー・コンプレックス 風林会館)

Oct 18
・劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語(新房昭之、宮本幸裕 2012 新宿バルト9)
・劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語(新房昭之、宮本幸裕 2012 新宿バルト9)

Oct 23
・フレンチ・カンカン(ジャン・ルノワール 1954)

Oct 24
・ドラゴン・タトゥーの女(デヴィッド・フィンチャー 2009)
・レベッカ(アルフレッド・ヒッチコック 1940)

Oct 25
・アラブ・エクスプレス展(森美術館)
・サンタクロースをつかまえて(岩淵弘樹 2012 六本木TOHOシネマズ)

2012年6月9日土曜日

2012年6月8日の日記 死から遠く離れて

戸田ツトムさんの『陰影論』(青土社)という本を読んでいる。肩書きは「グラフィック・デザイナー」ということだが、「装幀家」と言ってもいいのではないか。わたしが持っている本の中にも、戸田さんが装幀したものは多い。ドゥルーズの訳書など、いわゆる現代思想の本を多く手がけているからだ。戸田さんのデザインはそれと見てすぐにわかる。凛としている、と言おうか。それ以外に戸田さんの作った本を形容する言葉を思いつかない。


『陰影論』の第一章「弱さを聴く」では、戦後社会が死を遠ざけてきたことを取り上げている。例えば、右のような事例。阪神淡路大震災時に遺体の収容と安置が全く進まないことを受け、ダンボール製の棺が開発された。しかし、ダンボールの棺の導入の申し出を受けた自治体の全てが、これを拒否した、と。そして、死への過程にデザインはいかに携わるべきか、ダンボールの棺がその一つの示唆なのではないか、と戸田さんは述べている。


第一章の文章の初出は2006年と書いてある。この本が出たのは今年の二月であるから、編集者は昨年の大災害を受けてこの文章を巻頭に持ってきたのだろう。昨年の災害における、遺体の収容や火葬がどのように行われたのか詳しくは知らないが、それが全くスムーズに進んでいなかったことは聞き知っていた。結局、日本人は過去に学んでいなかったことになる。死に対して準備ができていなかったことになる。そりゃ、そうだ。災害は予測できるものじゃない。しかし、予測はできなくとも、災害に備え、予想される損害を最小限にしようと努力しておくことはできる。それが、「リスク管理」というべきものだ。


リスク管理の強迫観念に追われ、潜在するリスクを絶えず排除しようとする現代社会の落とし穴がここにあった。それは、死――すなわち最大のリスク、リスク以上のリスク、リスクですらないリスク――に対する耐性が全くないということである。とかく死を遠ざけ、死を見なかったことにし、死について考えることを延期する。これが、現代社会に生きる者と言わず、人間存在の「癖」である。この傾向は、現代、更に強くなっているのではないか。葬儀屋のフランチャイズ化、霊柩車の不可視化、火葬場のデパート化、墓地の公園化、等々。死にまつわるものや、死を弔うことが、その見た目をどんどん擬態させていく。更に悪いことに、そうしなければならないという要請のもと、資本と手を結んでいく。


以上のことは、戸田さんの「弱さを聴く」を読み、また、祖父母の死と葬儀に立ち会って感じたことである。祖父は二週間前に亡くなった。亡くなる三日前に、祖父がもうすぐ死ぬことをわたしは悟った。私は戸田さんが模索するデザインのような、衰退していく存在に手を添えることができなかった。ただ、今まさに死んでいこうとする祖父の傍らに立ち、手や肩に触れることしかできなかった。つまり、祖父の死をデザインできなかった。


わたしは常に「生きていくことは死んでいく」ことだと考えるようにしている。「メメント・モリ」という言葉の衝撃を知ったときからそう考えている。生きていくことは死んでいくことであり、死を延期しようとする営為である。つまり、生きていることそれ自体が、生と死のあわいを漂流する中途半端極まりない行為だ。生と死は二項対立的なものではなく、コインの裏表のような一対のものとして考えねばならない。


---


スーザン・ソンタグの『写真論』(晶文社)を読んでいる。写真について少し考える機会があったので。エッセイなので文章はなかなか大雑把だ。が、さすが写真論の古典というだけあって、聴いたことのある内容ばかり。きっと皆がこれを元ネタとして、中身を持ち去っているのであろう。


さて、盗むこと、掠め取ること、持ち去ること、これらは重要なことであると思う。古きは悪しき。「古典」が失効し、個人主義の究極的飽和状態の現代において、レファランスは失くなった。唯一のレファランスは「私」である。世論と法権力によるパクりのホロコーストが行われる。こうして後ろ盾という厚みを失った意見を纏うことが通常となった。理論武装は不必要である。手持ちの弾を適当に投げれば良い。


典拠を失った亡霊が跋扈する今こそ、盗み、パクることが必要だと思う。膨大なレファランスで理論武装すること。元ネタの原型をとどめぬほどそれを切り刻むこと。引用し、サンプリングし、それらをパッチワークし、コラージュすること。90年代のヒップホップやベックではまだ甘い。例えば…リッチー・ホウティンのダンス・ミュージックのような、あるいは梅ラボの絵のようなハイパー・パッチワークを実現すること。秩序と無秩序を接続させてショートを起こさせ、予測不可能なノイズを発生させ、不明瞭なグレーゾーンを生み出すことを目指して。

2012年6月5日火曜日

2012年6月4日の日記 ヴァーチャル資本主義

テレビや新聞を見ると、やれ株安だ、やれ円高だ、TOPIXはバブル以来最安値だ、ヨーロッパの信用不安だ、等々騒いでいる。因果な時代に生まれついたものだ。金融資本主義は細かな数字の上がり下がりに眼を光らせる。その数字の浮き沈みに一喜一憂する。数字のちょっとした変化が莫大な損失と利益を吐き出す。人間という動物は、一体なんでこんな馬鹿げたことをやっているんだろう、と思う。ヴァーチャルなゲーム経済の駆け引きで、不利益を被るのは末端の人間である。


---


今、友人に借りたチャールズ・ミンガスの『ミンガス・アット・アンティーブ』を聴いている。これが素晴らしい。チャールズ・ミンガスは私の一番好きなジャズ・マンだ。だが、実は私はミンガスのアルバムを手元に持っていない。彼のアルバムは全て友人に借り受けた。因みに、その次に好きなジャズ・ミュージシャンは、オーネット・コールマン(オーネットのアルバムでは『フリー・ジャズ』が最も好きだ)。三番目は、デューク・エリントン。そして、ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、マイルス・デイヴィスが同率四位かな。


チャールズ・ミンガスの音楽は汗臭くて泥臭い、熱気や体臭がムンと臭うような、こう言って良ければ、ちょっとばかりマッチョな音楽だ。ミンガスは、ルイ・アームストロングの荒々しさとデューク・エリントンの洗練とを同時に受け継いだ、いわゆるモダン・ジャズとしては類例のない音楽を作り上げたとわたしは思っている。異端、とまで言ってもいいかもしれない。エリントンの音楽というのも非常に独特で類するものがないが、ミンガスの音楽の孤立性、特異性というのは、ジェームズ・ブラウンやスライ・ストーン、更にはディアンジェロのそれに近いかもしれない。そのミンガスの魅力は、50年代末から60年代前半の傑作群に詰まっている。


吉祥寺に寄ったのでココナッツディスクでまたem recordsのレコードを買ってしまった。T.R. マハリンガムのPortrait Of A Prodigy : His Early Years, 1940s-50sというものだ。これがまた素晴らしい。南インドの音楽だが、時折お囃子のようにも聴こえるところがあり、「汎アジア」を感じる。


---




昨日は寺島靖国さんの『JAZZ雑文集』という本を読んでいた。「雑文」の題にふさわしく、「へろへろ」なエッセイが並び、読んでいてなんだか気が抜ける。文章がちょっと変なところもある。ジャズと全然関係なかったり。でも面白い。「俺はそうは思わないなあ」とちょっと反感を抱いたり、「ふーん、そうなんだ」と思ったりしながら、妙な句読点の打ち方や、時折顔を見せる口語調などがなんとも愛らしく、読みながら心地良さを感じる。このような軽やかなエッセイを読むことは滅多にないので、楽しく読ませてもらっている。


この『JAZZ雑文集』を出版しているのはディスクユニオンの出版事業、「DU BOOKS」であり、これは「DU文庫」の第一弾である。ディスクユニオンはこのように出版にも力を入れ始めているし、制作部門も面白い音盤を出しており、頑張っていると(偉そうだが)思う。『JAZZ雑文集』は今年2月に出ているが、まだDU文庫の第二弾は出ていない。次が楽しみである。ところで、このDU文庫は装幀がとても凝っており、瀟洒なデザインが格好いい。実は、装幀の格好よさに惹かれて、この本を買った面もある。しかし、読むには少々難がある。まず、ビニールカバーが柔らかいために表紙として安定しないのと、ツルツルして持ちにくい(これはビニールカバー装幀の全ての本に共通する問題)。それと、二枚の紙を貼り合わせた紙が波打って、本を開くとベコベコする。更に、国内盤レコード風に「縦巻き帯」が付いていて格好いいのだが、これが本を開いたときにちょっと破れそうになる。装幀が凝っているのは嬉しいことだが、やはり、本を手に持って読んだときに読者がどう感じるかも考えて装幀をしてほしい、と思う。つまり、「用の美」である。

2012年6月2日土曜日

2012年6月2日の日記 ぼくら21世紀の常備在庫

だらだらとした日記を書こうと思う。このエントリーは誰のためにもならない、かなり私的な日記だ。そもそも、この「ポピュラー音楽について」と題したブログは、わたしが「ポピュラー音楽」だと思う音楽の中の、とりわけ日本のミュージシャンのアルバムについて感想を書こうと思っているブログである(ここ数エントリーは映画の感想になってはいるものの)。「レビュー」や「批評」ではなく、わざわざ「感想」とした点は、簡単に言ってしまえば「逃げ」だ。つまり、「レビュー」や「批評」たりうるものを書く自信がないので、「感想」ということにしておけば、読者が許してくれるだろう、というどうしようもなく卑しい魂胆による。そのようなこの「ポピュラー音楽について」などと大袈裟にも銘打ったブログで私事を垂れ流すのは気がひけるのだが、しかし、「ポピュラー音楽」はわたしの血肉でもあるので、日記を書くことも「ポピュラー音楽」について書くこともあまり相違はないと思っている。


なぜ日記を書くのか。なんとなくである。また、一つ(あるいは複数)の作品のまとまった感想を書くのはけっこう骨が折れるので、もっと肩の力を抜いた、思いつきを思いついたままに並べ立てる日記のほうが楽だからである。他に理由を挙げるとすれば、坂口恭平さんの『独立国家のつくりかた』を読んで、坂口さんが日々の行動をブログにあけすけに書いていることに影響されたからである(一時期、坂口さんのブログはよく読んでいた)。また、わたしはここ暫くFacebookとTwitterから撤退しているために、インターネット特有の下らない承認欲求(これは「欲求」ではなく殆ど「欲望」だと常々思う)が段々と首をもたげてきたからだ。「誰かに自分を見てほしい」という、しょうもない欲望がどこかにある。


---


さて。今日は、鈴木鴻一郎責任編集『中公バックス 世界の名著54 マルクス エンゲルス I』を少し読んだ。そもそも数ある『資本論』の翻訳の中でこの抄訳本を手にとったのは、國分功一郎さんがブログでおすすめされていたからだ。先の冬に一度大学図書館で借りたのだが、読み通せずに返却してしまった。それで最近になってネット・オークションで一巻を購入して読んでいる。文章が非常に読み易くて良い。特に面白いのは鈴木鴻一郎さんによる巻頭の「『資本論』とはどういう書物か」という、厳格な研究に裏打ちされたエッセイ風の『資本論』紹介文である。日本での『資本論』需要の歴史や、マルクスがどのようにして『資本論』という書物を編んでいったのかが分かり易く書いてある。これを通読したらいつか完訳本にも挑戦してみたいものだ。やはり、ここまで資本という圧倒的な覇者に包摂されてしまった(そして、この瞬間にも包摂していく)世界で、資本主義の精緻な分析を行ったマルクスを読むことは必須だろうと思っている。これほどまでに「敵」とされ、「赤」として排除され、否定的なニュアンスを社会から押しつけられた「マルクス」「『資本論』」「共産主義」「左翼」という単語に相対的に対峙せねばならない。しかし、最新の『資本論』の翻訳本が日経BP社というビジネスマン向けの出版社から出ているというのが強烈な皮肉である。先に書いた鈴木鴻一郎さんの巻頭文に、『資本論』を金儲けの本だと勘違いしていた青年の話しが出ていたが、実際に金儲けのための本として売りだされているのである。因みにこの日経BP版『資本論』は祖父江慎さんの事務所、コズフィッシュの方が装幀しているそうだ。


ところで、マルクスに舞い戻ってきたのは、かのローザ・ルクセンブルク(もちろん、あのバンドのほうではない)の主著『資本蓄積論』の読書会に参加してきたからだった。ローザは、現代的な資本主義先進国が必ず胚胎している、農業・漁業等の一次産業の域外転嫁(アウトソーシング)という経済的暴力を見越している、ということだった。それにしてもわたしの先生の主催するこの自主研究会はとても勉強になる。ここで課題図書だったのは同時代社から2001年に出た太田哲夫訳『資本蓄積論(第三編)』で、これは絶版であり、Amazonのマーケットプレイスでは三万円近い値がついている。そんな値段で一体誰が買うというのだろう? 所謂「せどり」をやっているせこい輩が出品しているに違いない。しかし、どこかで安く手に入らないものだろうか(3000円なら買いたい)。一方で、2011年から『資本蓄積論』の新訳の刊行が始まっているようだ。まだ第一篇しか出ていないので、『資本蓄積論』の最も重要な部分と言われる第三編が出るのはいつになるのか分からないが、『資本蓄積論』はいずれ手に入れやすい状況になるだろう。




他方で、マルクスの亡霊を召喚するアーサー・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』を読んでいる。これがまた読みづらい本だが、非常に示唆に富んでいる。クローカーのハイデガー、ニーチェ、そしてマルクスを21世紀に召喚する戦法はなかなかうまくいっていると思う。この三者の思想家が核ではあるが、明らかにデリダ、ドゥルーズ、ドゥボール、ベンヤミン、ヴィリリオらに影響された単語が多く見られる。クローカーは、ハイデガーを援用し、現代をニヒリズムの蔓延した「倦怠」の時代として捉え、人間を受動的な「常備在庫」として総動員する社会であると喝破する。この「我々は『常備在庫』である」という痛烈な指摘や、「技術の時代は、形而上学の偏在によって形而上学が忘却される」という視線には舌を巻く。しかし、クローカーの危うさや問題点は、彼のいわば芸術至上主義的な志向にある。「技術の詩化」等々の文言によって、芸術や詩を金科玉条のごとく掲げるだけでは、技術の時代=21世紀の諸問題を解決できるわけはないのである。


あとは、つい最近亡くなった吉本隆明氏の主著『共同幻想論』を読んでいる。吉本氏もマルクスに強く影響を受けている。これは、わたしが自主でやろうとしている勉強会のための準備である。よく言われるように難解ではあるが、同じ事を反復的に語っているようにも思える。ただ、「共同幻想」はともかくとして、「対幻想」と「自己幻想」は非常に分かりづらい。


---


先日、em recordsが出している里国隆のレコード、Wandering Shadow Of Southern Streets: Blind Itinerant Musician from Amami Islandがどうしても欲しくなったので新宿のディスクユニオンへ行った。これは、オフノートから出ている『あがれゆぬはる加那』と殆ど同一のジャケットで、曲目もそれに近いが、他の作品からも選曲されているベスト盤である。初めて聴いた里国隆の鮮烈な歌声には圧倒されるばかりだ。プロフェッショナルじみてはおらず、がさつで粗野な歌ではあるが、そうであるからこそ親しみ深く、胸を締め付ける。よく「ブルース」とも評されるが、きっとこれは奄美の歌そのものであり、それ以外の何物でもないだろうと思う。


ディスクユニオンに寄ると、どうしても財布の紐が緩くなってしまう。新宿店の4階、ラテン・ブラジルのフロアーではキング・サニー・アデの『ジュジュ・ミュージック』と、ティナリウェンの昨年作『タッシリ』のCDを中古で買ってしまった。まるで「ワールド・ミュージック初心者」のようなセレクトで少し恥ずかしい。無駄な虚栄心だ。ついでにレジの横にあった「ラティーナ」6月号も買ってしまう。


アデの『ジュジュ・ミュージック』は、膨大な情報量を誇るワールド・ミュージックのサイト、Quindemboで推されていたのが記憶にあり、安かったので買ってみた。有名な『シンクロ・システム』や『オーラ』よりも影が薄い本作だが、少しばかりオーセンティック(?)なジュジュが聴け、その二作よりもだいぶしっくりくる。シンセサイザーよりもスティール・ギターが目立っている。わたしはこちらのほうが好きだ。これらアデの作品はマルタン・メソニエのプロデュースである。同じくマルタン・メソニエが制作したハレドの『クッシェ』(500円で手に入れた)も最近よく聴いている。


ティナリウェンは2nd『アマサクル 』と、ジャスティン・アダムズのプロデュースによる名作の誉れ高い『アマン・イマン〜水こそ命』しか持っていない。最新作『タッシリ』はそれらと比べて、よりパーソナル(?)で泥臭く、アコースティックでローファイな音の感触が格好いい。"Tameyawt"に象徴されるようなイブラヒムの弾き語りが特に良い。繰り返し繰り返し聴いてしまう。




その他には、私が今最も惹かれる東京のバンド、ホライズン山下宅配便のニュー・アルバム『りぼん』、ネット上でたくさん落としたミックステープ(グッチ・メインの最新ミックステープ、I'm Upデス・グリップスのExmilitary等)、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの『他の岬』、シキル・アインデ・バリスター『ニュー・フジ・ガーベッジ』、やっと良さが分かったフージーズの『ザ・スコア』、アウトキャストの『スタンコニア』などをよく聴いている。


---


早稲田松竹でテオ・アンゲロプロスの追悼上映が二週間行われていた。『旅芸人の記録』『霧の中の風景』、『永遠と一日』を観た。これまでの映画体験をひっくり返されるような作品たちで、彼らに向ける言葉を未だ見つけられずにいる。




他には、今更だが古典『天井桟敷の人々』のDVDを借りて観た。

2012年5月7日月曜日

アキ・カウリスマキ監督『街のあかり』(2007)



『街のあかり』の主人公(=ヒーロー)コイスティネンは、皮肉なことにこの映画の中で最も不幸な人物、「負け犬」だ。いわば、彼はこの映画の犠牲者である。

彼は劇中、たった一度しか笑顔を見せない。他人の罪を被って服役している時、他の囚人たちと煙草を吸って談笑している、その一回のみである。もしかしたら、この時が彼にとっては最も充実した時間だったのかもしれないが、それはわからない。コイスティネンにとって絶対的な他者たる登場人物たちや、徹底して「他者の目」としてあるカメラは、終始無表情で感情の起伏に欠くコイスティネンの内面には決して立ち入らないからだ。皆が皆、コイスティネンにとって他者である。街のあかりも、コイスティネンとは無関係に煌々と灯っている。



彼は孤独である。煙草も、酒も、音楽も、企業するという夢も、そして彼に密かに思いを寄せるアイラすらも、彼の孤独を打ち破るほどの力を持ち合わせていなかった。反復されることにでより強固なものとなってゆくコイスティネンの孤独と、硬化してゆく感情。それをついに揺さぶったのは、悲劇的に圧倒的な絶望と暴力だった。映画の最終部、絶望と暴力に打ちのめされ、地の底の底へと追いやられたコイスティネンがそこで口にするのは、ネガティヴだが微かに希望の陽が差し込む科白である。

「ここじゃまだ死ねない」

そこにおいて、彼は初めてアイラの手をしっかりと握るのだ。しかし、ここまでコイスティネンを追いやらねば希望というものが見いだせない、カウリスマキのニヒリズムに私は少し怖くなってしまう。この世はそれほどまでに愛なき世界だろうか?


2012年4月28日土曜日

アキ・カウリスマキ監督『過去のない男』(2002)


アキ・カウリスマキ監督の新作、『ル・アーヴルの靴みがき』が、早いところでは本日から公開された。それを記念してユーロスペースで行われていた、「おかえり! カウリスマキ」(何とも愛らしいタイトル)というカウリスマキの全作品の特集上映があったのだが、結局、足を運ぶことができなかった。

そのように再注目を浴びているアキ・カウリスマキの『過去のない男』を観た。まとまりなく、思いついたことを書いてみよう。

---


さて。映画の美はどこに宿るのかと問われれば、私はやはり映像であると思う。画面の美しさ、映像としての美しさ、それを言語化することはとても難しい。多分に主観的で、言ってしまえば好みのようなものだ。それでもやはり、画面を見つめた時点で、映像の美醜は私の中で峻別される。映像に鋭敏な人間が作っているか否か、はすぐにわかってしまう。いくら物語内容が面白く、気を引くものであったとしても、それを語る言語たる映像が美しくなければ、どうでもよくなってしまう。
アキ・カウリスマキ監督のこの『過去のない男』は、そういう意味でとても美しい映画であった。現実を映像としてフィルムに焼き付けるその工程に、きっちりと美しさが刻まれた作品だった。コントラストが高く、輪郭線のはっきりした映像に引き込まれてしまった。

この映画には若者は殆ど出てこない。主要な登場人物はみな貧しい中年かそれ以上の男女である。だから、彼らの身体には厳しさを湛えた疲弊や年輪が刻み込まれている。皺や皮膚のたるみ、張りがなくなった荒い肌理、脂ぎった顔、白髪の混じった髪。そういったものが容赦なく映像として提示される。でも、彼らはなぜか美しいのだ。「味」とはまた違う、別種の美しさがあるのだ。それは、若さを絶対的な美として崇める者には絶対に作りえない映像美である。

だからこそ、映画の初頭で吐かれる、「人生は前にしか進まない。後ろに進んだら大変だ」という、この肯定的な励ましとも、諦めともとれる科白がこの映画のハイライトなのだ。いくら手元に留めておこうと試みても、それに必ず抗って暴力的に進行する「時間」という、この絶対的な支配者との付き合い方を言葉少なに綴る――『過去のない男』はそういう映画である。

「乾いたペーソスとユーモア」なんていう、手垢まみれにすぎて最早何の意味もなさない表現を使いたくはないのだが、『過去のない男』は「乾いたペーソスとユーモア」を湛えながら淡々と進行していく。とても愛らしく、貧しい中年たちが淡々と生きていく。そこには時々酒があり、ご馳走があり、粋な語らいがあり、煙草がある。まるでドラマティックではないが、それこそがドラマなのだと言わんばかりだ。

---

最後に。常に音楽が流れている。それがまた、とても心地良いのだ。ブルースやロックンロールやクラシックがこの映画のサウンドトラックを満たしている。カウリスマキ・ファンであるクレイジーケンバンドの楽曲も登場し、驚いた。

主人公の過去がないこと=名前がないことや、路上生活についても触れたかったが、今回はこんな感傷的な感想で終えておこう。


2012年4月25日水曜日

太田いくえ『照応』

太田いくえ『3寄の往還』全体(映像を映像として)
©Ikue Ohta

武蔵野美術大学の優秀作品展を観に行ってきた。というのも、以前、大学の同じサークルに属していた太田いくえさんの作品『照応』が展示されているからだった。Facebookのページにアップされた、その『照応』、あるいは『3寄の往還』の写真や動画にただならぬ魅力を感じ、これは是非観てみたいと思ったのだった。

そして、実際に『照応』に相対してみると、そのえも言われぬ圧倒的な佇まいに、私はすっかり打ちのめされてしまった。それは、他の学生による優秀作品とは全く違うレヴェルにあるような強度と自律性とを持ち合わせていた。『照応』には、優れた芸術作品が必ず持っているような、こちらの前提や事前了解、常識といったものを突き崩す、不安定な感覚へのいざないがはっきりと刻まれていた。日々反復する生活を一瞬で崩壊させるような、ラカンで言えば現実界、あるいはカント的な物自体へのいざない。

---

イントロダクションを少々。『照応』は少し複雑に入り組んだ、コンセプチュアルな作品である。まず、彫刻作品『定着まで』と映像作品『定着より』とが、『3寄の往還』を成し、そして、その『3寄の往還』と『果てることなく漂え』という文章作品とが『照応』を成す(会場では、私は自らの注意不足のために、ハガキとして展示されていた『果てることなく漂え』を見落としてしまっていた)。

彼女自身による『照応』の紹介も引用してみよう。

彫刻だけで成り立ち、映像だけでも成立する。文章は予め作られていた。
扱う次元の異なる表現を符合させることで、手法を越えた状態が生まれる。

彫刻・映像を合わせた作品であるためか、無機と有機の間を止め処なくたゆたう。
理性的な作品に感情的な文章が当てられることで、振り切れない存在が新たに揺らぐ。

---

太田いくえ『3寄の往還』全体(映像を照明として)
©Ikue Ohta

さて。『3寄の往還』の前に立ち、そこに映像が照射されたとき、彫刻のくっきりとした像が突如立ち現れ、ちょっと恐ろしい感覚に襲われた。心拍数が上がった。そこに彫り刻まれたものは、ゴツゴツとした無骨な隆起や襞や溝、そしてザラついた物質の表面であり、それが鈍重でメタリックな色を帯びる。その照り輝きは、まるで暗室に浮かび上がる古ぼけたイコンのような神聖さでもありながら、サイバーパンクやスチームパンクの映画作品が持つひんやりと薄汚れた質感でもあった。

映像が動き出すと、更に不思議な様相を呈する。様々な大きさや形をした矩形群が、『定着まで』という奇妙なキャンバスの上で、機械と生物との中間をゆくような動きを見せる。移動し、顫動し、蠢動し、淀み、軋む…。そして明滅する光や、それら移動する矩形が、彫刻の隆起や襞を切り取り、歪ませる。

固定された彫刻『定着まで』の質料因=素材がかたくなに守る沈黙に、映像『定着より』は揺さぶりをかける。数分経ったところで映像が止み、再び『定着まで』はエントロピーの法則を無視したような確固たる永遠性を獲得したかと思えば、追い打ちをかけるように『定着より』が再度襲いかかり、『定着まで』を怪しく舐め回す。まさに作家本人が語る通り、『3寄の往還』は「無機・有機」という二分法に挑み、その区分けを揺るがすような作品である。

また、この作品から立ち上がる、ある種リビドーのような泥臭さ、汗臭さ、汚らしさ、異形性に畏れを感じた。もし、照射される映像がいつまで経っても止まなければ、永久に作品の前に磔にされて、一歩も動けなくなってしまうだろう…。そのように思わせる、畏怖の感覚を覚えた。それはまるで、杉本博司の孤高な完全性と、アルベルト・ブッリの低俗唯物性が同居しているような…。

一方で、『照応』を成すもう一つの作品、『果てることなく漂え』というテクストは、記憶・記録と現実との非対称性への不満足についてのものだ。実際にあるものと、ありうべきものとの埋められない溝に気づき、欲望が空焚きされる、あの感情だ。その、記憶・記録の不確かさ、不安定さが明示されることで、『照応』を観る者は、記憶・記録と現実との「照応不可能性」に打ちひしがれるのだ、と思う。

太田いくえ『果てることなく漂え』
©Ikue Ohta

言うまでもなく、大抵の芸術作品とは、恒久的に、反復的に、静かにそこにあり続けるものである。私と作品との一回的・個的な出会いは、(一回性が有する尊さを感じさせながらも)反復されることなく、永久に失われてしまうにも関わらず、である。『照応』という作品もその例に漏れない。しかし、記憶・記録の不完全性という何人たりとも避け得ない事実の提示、すなわち「反復の否定」を永久に反復し続ける逆説的な作品であることが、『照応』を特異な作品にしているように私には思える。

---

「スタイリッシュ」で適度に「良い感じ」の無菌的・除菌的なモノが横溢し、幅を利かせる世界において、それにおもねるか、または極端な汚物へと反動的に向かってきた所謂「現代アート」の動向に距離を置いて、傍から眺めているかのような冷淡さと厳しさが『照応』にはある。『照応』は、芸術が有する特権的な超越性と、俗物的な地の底の卑俗性との、そのどちらに転がることもなく、ただひたすら「たゆたい」、「往還」する。

しかし、まだ「3寄」という言葉に対する解を私は得られていない。『定着まで』と『定着より』が成す『3寄の往還』。「3」とは? 「寄」とは? そのヒントは『3寄の往還』の英題Far from 3 But Close to 3にあるのかもしれない。

---

太田いくえ http://www.ohtaikue.com/
平成23年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展 http://www.musabi.ac.jp/exhibit/2012_yushu/index.html

2012年4月24日火曜日

曽我部恵一BAND『曽我部恵一BAND』


曽我部恵一BANDの3rdアルバム、『曽我部恵一BAND』については、まず「街の冬」について語りたいと思う。

友人が、「街の冬」は高田渡みたいだ、と言った。生活保護の申請を断られ続ける、貧しい姉妹の歌だからだ。

これは今年、札幌であった実際の事件を下敷きにしているようだ。知的障害のある妹を世話していた姉が急病死した後、妹が自力で生活できずに凍死してしまった、という痛ましい事件だ。姉は生活保護の申請をしていたが、受け付けられていなかった(社会学者たちが「共同体の紐帯の崩壊」の実例として、嬉々として取り上げそうで、それがなんだかイヤである。私は、その「共同体の紐帯」が切れてしまった社会において、社会のセーフティ・ネットが全く働いていないことが問題であって、感情論やバッシングではなく、この現実を前提としたセーフティ・ネットの具体的な構築方法が肝要な議論の的となってほしい、と思うのだが…)。

この「街の冬」は、高田渡のようなある種の諦念と、貧困への慣れからくる倦怠感や暖かさとは違い、より厳しいものである(もちろん、高田渡がそればかりを歌ってきた生ぬるい歌手だったと言いたいわけではない)。「街の冬」で歌われる暖かさは、彼女たちの死から逆照射された周囲の人間の希望であり絶望(「とっても仲の良い姉妹です」「それを見ていると こっちまで楽しくなってきます」)、そして、彼女たち自身の死と表裏一体となった希望=絶望(「天使がやってきて ドアを叩きます」)である。恐ろしいほど悲しい歌であると、私は思う。

---

話は遡る。前作『ハピネス!』には失望した。悪いアルバムじゃない。けど、聴き手の了解の領域内で鳴っている音楽だと思った。「ライブで聴いたらさぞかし楽しかろう。そしてライブハウスを出た瞬間に体は冷えきって、次の日にはライブの内容を忘れてしまうだろう。ロックンロールのシンプリズムをひたすら突き詰めていけばいい。ラモーンズにでもなってくれ」。鳴っている音に必然性が感じられなかった。魔法を詰め込んだバンドワゴンは、もう自己満足でピカピカに磨き上げられたこだわりのクラシックカーになってしまった。そう思ったのだ。

さて、去年、たまたまサニーデイ・サービスのライブを観ることがあった。サニーデイが再結成したとき、「なんでもかんでも再結成しやがって。つまらんに決まってる」などと失礼千万なことを思って、高をくくって放っておいた。だから、ライブも全く期待していなかった。ところが、曽我部さんが歌い始めると、圧倒される他なかった。「若者たち」や「白い恋人」が激しく演奏される。荒々しいギターサウンドと昂りきったボーカルとが、あのサニーデイ特有のクールでどこか拙いグルーヴを汗臭く沸騰させていた。まるでニール・ヤングとクレイジー・ホースだった。わけのわからない説得力があった。畏怖さえ感じさせる曽我部さんのたたずまいに、えも言えぬ感動とショックを受けた。

---

そんないきさつがありつつ、曽我部恵一BANDの3rdアルバムを聴きたくなったのは、直接的には、その作品の周りに言葉が巻き起こっていたからだ。ele-kingの記事を読んで、「これは聴かなきゃダメだな」と思った。

作品が世に問われたときに、必ず言葉が砂塵のように巻き上げられる。必ず言葉がつきまとう。だけれど、販売促進の宣伝文=広告や、直情的な感想(例えば140字で済ませられるような)しか引き起こせない作品が大抵である。それらは作品を騙った、作品でないものだ。一方で、その言葉という砂嵐の中で、目につくような光を放つ批評的言説を巻き起こす作品がある――『曽我部恵一BAND』はそんなアルバムだ。

---

3枚目にして、曽我部恵一BANDは大きく舵を切ったようであり…やっぱりこれまでの(曽我部恵一としてのソロ・キャリアを全て含めた)延長線上にあるようにも聴こえる。わからない。アルバムの収録時間はこれまでの2倍、70分近くになった。シンプルなロックンロールだけじゃなく、様々な要素が注ぎ込まれた。その要素は、インディペンデントへとシフトした曽我部さんが、これまで体当たりでぶつかってきた様々な若手ミュージシャンたちからの影響も伺えるものだ。

例えば、「ソング・フォー・シェルター」はラップとポエトリー・リーディングの境界線を歩むような歌だ。「魔法のバスに乗って」が「J-HIP HOP」へのカウンターであったり、「サマー・シンフォニー」でPSGとのコラボレーションを試みてきた(ヒップホップとの関わりを他にもたくさん持ち、常にヒップホップを注視しているだろう)曽我部さんにとって、ラップというのは重要なファクターのはずだ。
でも、私にはどうしてもディランに聴こえてしまうのだ。タイトルは「嵐からの隠れ場所 (Shelter from the Storm)」を思わせる。さて、甚大な放射能公害を経験してしまった私たちにとって、この曲の「シェルター」という言葉の意味はただの「隠れ家」とは思えない。だから、「坊や、そっちはどうだい?/どんな感じだい?」という「青春狂走曲」とはまた違った意味を帯びた問いかけに、私たちはどう答えていいのか窮してしまう。つい、うなだれてしまう。私たちは「うまくやっている」だろうか?

アルバムの中でとりわけ光っているのはやはり、tofubeatsによるリミックスが先行シングルとして出された「ロックンロール」だ。シンプルなロックンロールを奏でてきた曽我部恵一BANDが、ちょっと荒削りなシンセサイザーの音が鳴り、ハウス・ミュージックの四つ打ちビートが支配するこの曲に「ロックンロール」という曲を名付けてしまう、その乱暴なまでに転倒を試みるアティチュードに舌を巻く。ロックンロールは昔、ダンス・ミュージックだったのだ。みんな、ロックンロールで踊っていた。そんな半生記ぐらい前のことへ思いを馳せさせる曲だ。頭に浮かぶイメージをそのまま言語へトレースしたような、何を言っているのかわからない歌も、やはりロックンロールならではなのだ。


こんなことを言ったら見当違いだと怒られてしまうだろうが、「満員電車は走る」はすごく前野健太っぽい。語るような、字余りの歌い方や、ある種「私小説的」な歌詞(この言い方はあまり好きではないし、正しくもないが)。「アイデンティティを持つこと」がむやみやたらと求められ、「私はこういう人間です」と自ら説明せねばならない必要性に駆られる現今。バイトの面接を受ける女の子は「ねえ、面接官さん教えて/私が誰だか教えてよ」と問いかける。


他にも切々たる歌唱が感動的なカントリー・ソング「兵士の歌」、スタジオでテープレコーダーを使って録音したような荒々しい「胸いっぱいの愛」、幻想的でダビーなレイドバック・ソング「サーカス」、ノイ!っぽいミニマルな「ポエジー」等々、傑作が並んでおり、書ききれない。

---

…などと、批評的言説とは程遠い、直情的でまとまりのない感想を書いてきた。でも、私は上の文章で「感想文が悪い」などと言いたいわけではなかった。作品に対して自分の言葉でもって、やんややんやと言葉を投げかけることはとても意味あることだし、そんな言葉が無くてはまったくもって面白くない。

この『曽我部恵一BAND』というアルバムは、果てしのない強度と必然性と、何より恐ろしいほど具体的で、現実的で、問題含みで、聴き手の想像力を問うてくる言葉と音が詰まっている。一方で悲しみが蔓延している。一方で生きる喜びが刻まれている。もう一方では、空虚さが場を占めている。複雑に入れ替わり立ち代わり現れる感情の機微のテクスタイルこそが人生であり、生活である。この作品はそれを写しとっている。

2012年4月23日月曜日

パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』(1987)


観た映画のことも、少し書いていこうと思う(基本的にはネタバレ)。

パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』を観た。なんとなく、観る機会を逸していた作品の一つだが、TSUTAYAがこれのDVDを大量に入荷していてやたらめったら推していたので、そのマーケティングに乗せられて借りてきたのだ。

非常に面白く、観客を飽きさせない展開で、ジャスミンがバグダッド・カフェの「住民」たちと打ち解けていく様や、感動するといえばする。また、冒頭の涙を流すブレンダとジャスミンが出会う場面は名シーンとしかいいようがない。そのハートウォーミングな物語内容や、市井の人々を巧く描いた脚本や演出が当作を名画たらしめている所以の一つでもあるのだろう。

しかし、ストーリー的な詰めの甘さがかなり歯がゆい(これは最早悪口ではあるが、ジャームッシュとヴェンダースの映画を足した感じが拭えない。皮肉なことに、Amazonで「バグダッド・カフェ」を検索すると、『パリ、テキサス』も引っかかってくるのだ(笑))。それは、わざとやっているようにも思える。終盤、「家族同然」の妙な色気を持った彫り師デビーがバグダッド・カフェを去ろうとするシーン、あるいはルーディ(ジャック・パランスの名演! というかこの映画の役者たちは本当に素晴らしい)がジャスミンへ求婚するラストシーン、あるいはジャスミンの夫の行方などにそれが顕著で、何かしらバグダッド・カフェという共同体の崩壊を暗示しているとも思える。何というか、後半は不穏な空気が出ているのだ。まるで、バグダッド・カフェの幸福な時間は、ジャスミンのビザが期限切れとなった時点で終わってしまっているかのような。そう考えると、その後の展開(ジャスミンとブレンダの再会など)は虚しささえ感じられる。その虚しさとは、懐旧のあの甘い感覚を伴っている。だから、バックパッカーが中空へ放り投げられたブーメランは手元へ回帰せず、貯水タンクにぶつかって落下してしまうのだ。楽しく慣れ親しんだその反復的生活の終わりを巧く象徴しているシーンだ。

映像的には柔らかく、そして少しサイケデリックな光の使い方、ザラついてカラッとした映像感覚が全編を覆っており、非常に格好良い(なぜ、『バグダッド・カフェ』は夜のシーンを殆どと言っていいほど描かないのだろうか? それはやはり日光を、当作が描いているからだろう)。しかし、観客を置いてけぼりにする序盤のジャンプカット、ちょっとした早回し、その他映像的実験や、後半のミュージカルシーンはただやりたかっただけのようで、必然性が感じられない。いや、その必然性というものを感じさせないとっちらかった映像感覚、易々とメジャーな感覚に回収されないアマチュアリズムこそが『バグダッド・カフェ』の魅力なのかもしれないが。

さて、不思議なのはルーディの描いた二つの光が差す絵画である。果たして、あれは一体何なのだろうか? 興味の尽きない映画である。

あ、今作を語る際に外してはならない音楽について語るのを忘れてしまった。それはまた今度にしよう。


2012年4月21日土曜日

菊地成孔 feat. 岩澤瞳「普通の恋」


これは渋谷系を騙った、アンチ渋谷系ソングだ。
90年代は、バブルの残滓と渋谷系の多幸感に浮かれた時代であると同時に、一方で「失われた10年=ロスジェネ」でもあった(とされている)。前者には目もくれなかった人々はこうである。つまり、「ドストエフスキー」と「エヴァンゲリオン」に夢中で(ある意味、社会の命令によってそう「させられた」)、「退屈と絶望が日課」の「ハンパに高いIQがいつでもいつでも邪魔になって/革命ばかりを夢見るけれども/何も出来ない」、内宇宙に逃げ込んだ男たちと、「パパ」による性的暴力のトラウマと「チョコレート」の摂食障害に悩まされる女たち。
90年代、社会学者たちがこぞって分析したこうした「普通でない」人々=社会の共同幻想へ過剰適応させられた人々を、見事にポップソングとして切り取った手腕がまず素晴らしいと思う(言うまでもないことだが、popularという英単語は「大衆的」という意味だと指摘しておかねばならない)。しかし、社会学者にできなかったことを、このポップソングという名のフィクションでもって菊地は成し遂げている。つまり、社会に過剰適応させられた上、社会学者によってバラバラに解剖され、もはや細胞単位の標本と化してしまった上記の男女を出会わせたのだ。ボーイ・ミーツ・ガール、ガール・ミーツ・ボーイ。
だからこそ、「お洒落な場所じゃなかった」と語られるコンビニでのこの男女の出会いと、彼らの「普通の恋」は感動的であり、最上の「癒し」をもたらす。


2012年1月10日火曜日

MAHOΩ『摩・歌・不・思・戯ep』



ポップはテレビには映らない。ポップは電通と博報堂とアサツーディ・ケイによるキャンペーンとTEPCOの提供では報道されない…。なんてね。去年、素晴らしい楽曲を僕らに届けてくれたShing02とHUNGERの言葉を引用したくなる(「アサツーディ・ケイ」は勝手に足した)。

何故かと言えば、「ポップ」を騙るポップでない連中があまりにも酷いからだ。だからこそ、倦まず弛まずこう言おう。「ポップは僕らの手の中だ!」と。

未成熟性、あるいはアマチュアリズムを売りさばく昨今のアイドル・ブーム(しかも、もっと酷い事に彼女たちアイドルは、中途半端なプロ意識まで持ち合わせている)。愚鈍な歌詞、下手くそな歌、過剰な音を詰め込んだしょうもない打ち込み音源と適当なメロディ…。もううんざりだぜ。

長くなった。さて、MAHOΩ。「MAHOΩ」と書いて「マホー」と読む。彼女らは、可愛い女の子二人がフロントで歌い踊る、目にも優しい八人編成のロック・バンドだ。そして、『摩・歌・不・思・戯ep』は彼女たちの1stデモCD-Rだ。

ヴォーカリストの二人の、なんだか少し不安定な歌唱を聴くと、MAHOΩもアマチュアリズムを安売りするアイドルのように、もしかしたら思われるかもしれない。しかし、彼女たちを素晴らしいポップ・バンドたらしめているものは、ニュー・ウェイヴィで強靭なバンド演奏(特にドラムスと、素晴らしい音色を聴かせる3キーボーズ)と、気の利いたアレンジとメロディを持った楽曲群だ。まるで大貫妙子と矢野顕子がYMOとタッグを組んでいた頃の音楽のようじゃあないか(更に言うなら、MAHOΩには、電子音の実験とポップ化が盛んに行われていた80年代の美味しい部分を掬い上げたシャープさとキレの良さがある)。

まずは名曲「しかけの恋」を聴いてほしい。「しかけの恋」は最早、ポップ・クラシックだと言い切りたいほどの貫禄と素晴らしいメロディを湛えている。


MAHOΩ【しかけの恋】2011/8/28 早稲田ZONE-B



そして、ユーモラスでキッチュなダンス! これこそがアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの垣根を突き崩し、パフォーマンスとハプニングの境を曖昧にする、素晴らしきMAHOΩの魅力だ。その魅力は「僕らに愛を!」という曲に凝縮している。


MAHOΩ【僕らに愛を】2011/8/28 早稲田ZONE-B



「僕らに愛を!」だなんて、まさにその通りだ。僕らには愛が必要だ。洒落を織りまぜ、取り留めのない愛を歌う詞は、なんだかよくわからないけれど心に残る。でも、なんだかよくわからないからこそ良い。簡単にわかってたまるか。

これからMAHOΩは、魔法じかけの洗練されたポップをどんどん更新していき、より多くの人に届けるに違いない。僕らにポップを!

2012年1月9日月曜日

昆虫キッズ『ASTRA / クレイマー、クレイマー』



なんにせよ、インディペンデントで活動を行うということはとても勇気があることだ。私は「インディ・ロック」という言葉を気に入っている。ポジティヴィティを放っている言葉だ。その言葉の響きに詰まっているものは、探究心、好奇心、喜び、逡巡と陰り、音楽に対する真摯さ(あるいはその逆)、ユーモア、そして「とても良い予感」だと思っている。

昆虫キッズはそんなインディ・ロックの急先鋒である。彼らの音楽は常にオルタナティブへと突き進んでいるし、ヴォーカリスト高橋翔は自らの言葉を研ぎ澄ませることをやめない。新曲が届けられるたびにワクワクする。ライブに足を運べば、トリックスターのような飄々とした立ち居振る舞いとは裏腹に、その熱量に圧倒される。一見ドリーミーでかわいらしい夢を、時にはちょっとした悪夢へと反転する夢を突きつけるのが昆虫キッズだ。

彼らの新しい両A面シングル『ASTRA / クレイマー、クレイマー』も本当に素晴らしい。

特に「ASTRA」。この曲は、ライブ・ヴァージョンが「暑中見舞いver.」として2011年の夏に無料で配信されていた。そのヴァージョンと演奏の骨格はほとんど変わっていないが、シングルに録音されたヴァージョンはこちらを不安にさせるほど恐ろしい音になっている。まるでスティーヴ・アルビニが録音したかのような破滅的で攻撃的なドラムスの音、気味の悪い音のギターとユニゾンするMC.sirafuのスティールパン、演奏を突如切り裂くトランペット、そして意味のくびきに引っかかり続ける言葉が入り乱れている。


昆虫キッズ/ASTRA



「それからのことなんか思い出せないよ」「あれからのことなんか話したくないよ」と、奇妙な譜割りで歌う高橋翔は詩人だ(そして彼が作ったこの「ASTRA」の、悪夢のようなPVをご覧いただければ分かる通り、変態性を備えた天才だ。ブラッドフォード・コックスの昨年のアルバム・ジャケットのようなコスプレまでしている)。これらのフレーズには、否が応でも「あの日」以降の影が忍び込んでいる。

この音を聴くと、劣悪な音で封じ込められた2009年の1stアルバム『My Final Fantasy』(大好きなアルバムだ)から、彼らはレコーディング・バンドとしても着実に成熟し始めていると感じる。

2012年1月3日火曜日

cero『WORLD RECORD』



ceroという名はずっと昔に聞いたことがある、気がする。cero。彼らとは同じ空気を常に吸っていた。そんな気がする。contemporary exotica rock orchestraの略で、cero。

和歌山出身の友人にこんなことを言われて、はっとしたことがある。「君の好きな音楽は『郊外の音楽』だよ」と。そうか。その通りだ。

あるいは冗談でこんなことを言っていた人がいる。「23区外は東京の『植民地』だよ」と。

彼らの音楽が物語るのは東京の西、あるいは東京の周辺(埼玉だって千葉だってどこだっていい.そこは中心じゃない)、つまり再開発によってめちゃくちゃにされたベッドタウンで生きる(あるいは生きた)私たちの音楽だ。私たちに与えられたかけがえのない生きる時間を、かけがえのない労働力を下らない銭に変換し、その日その日を何とはなしにやり過ごす私たちの音楽だ。ceroが描くサウンドスケープはそんな風だ。


cero - 21世紀の日照りの都に雨が降る_100623



ceroの「入曽」という曲を聴いてみよう。気づけばほら、「ここは衛星都市」だ。「ネオンぴかぴか パチンコ屋」が駅前で幅をきかせている。早朝にはその前で右翼の街宣車が悪態を吐いているだろう。「東京」はさぞかしエキゾチックなところだろう。なにせ「ここから東京まで行くならショート・トリップ」だから…。

ここはどこなんだろう? ここは東京? 東京の灯りは遠くに見えたけれど、大停電で灯りも見えなくなってしまった…。


cero / 大停電の夜に - PV



ceroの産み落とした名盤『WORLD RECORD』にはそんな微かな政治性と、微かな抵抗の源が刻まれている。少なくとも私にはそう聴こえる。ナイーヴではいられない。