2012年11月4日日曜日

女と男のいる舗道(ジャン=リュック・ゴダール 1962)―言葉を裏切り、言葉に裏切られながら自分の人生を生きる

 特別観たいものが無い時はゴダールかヒッチコックの映画を観てしまう。




 『女と男のいる舗道』はナナ(アンナ・カリーナ)という舞台女優志望の女の子が夫も子供も投げ打って女優を目指すものの、娼婦へと転落してしまう物語。エミール・ゾラの『ナナ』の物語を反転させた、皮肉めいた話である。そのゾラへの言及や、冒頭で引用されるモンテーニュ、後半に登場するポーの小説(ボードレール訳)、直接的に引用されるカール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』など、ゴダールお得意の文学・哲学的引用が多数埋め込まれている(そういえば、カール・ドライヤーの映画は『吸血鬼』しか観たことがない)。

 映画のコードを打ち破るような斬新なカメラワーク(例えば、映画の始め、ナナは元夫と会話しているのだが、カメラはナナの後頭部しか映さない)、ワンシーン・ワンカットが続くモンタージュの少ない構成など、技法的に気になる点が非常に多い。この映画において、カメラの移動は極力抑えられている。一方でジュークボックスから流れる音楽に合わせてナナが踊る場面などでカメラは自由に動く。その静と動の対比が鮮やかである。また、鏡越しに役者を写すなどの技法もわざとらしいくらいに多い。


 映画の冒頭、次のような言葉が引かれる。
「他人に自分を貸すこと。ただし自分を与えるのは自分にだけ限ること」
このモンテーニュの警句は、映画を最後まで観ると意味を持ってくる。ナナは役者として自分を他人に「貸す」のではなく、売春婦となることで自分を他人に「与え」てしまった。魂を売ってしまったのだ。そこにこそナナの悲劇の原因がある。だから、この映画の原題、Vivre sa vie(自分の人生を生きる)というのも映画を全て見終えて初めて有意味となる。ナナは自分の人生を生きただろうか? もちろん答えは否である。邦題の『女と男のいる舗道』は美しいタイトルではあるけれども、そういう意味では最悪だと思う。ストレートに『自分の人生を生きる』とした方が効果的ではある。

 後半、アンナ・カリーナとゴダールの哲学における師ブリス・パランが哲学的な問答をするシーンが登場する。このシーン、脚本はなく、即興的な対話をカメラに収めたものであるらしい。この対話が非常に素晴らしいのだ。少し引用してみよう。
「でも、なぜ話をするの? 何も言わずに生きるべきだわ。話しても無意味だわ」
「本当にそうかね?」
「わからない」
「 人は話さないで生きられるだろうか」
「そうできたらいいのに」
「いいだろうね。そうできたらね。言葉は愛と同じだ。それ無しには生きられない」
「なぜ? 言葉は意味を伝えるものなのに。人間を裏切るから?」
「人間も言葉を裏切る。書くようには話せないから。だがプラトンの言葉も私たちは理解できる。それだけでもすばらしいことだ。2500年前にギリシャ語で書かれたのに。誰もその時代の言葉は正確には知らない。でも何かが通じ合う。表現は大事なことだ。必要なのだ」
「なぜ表現するの? 理解し合うため?」
「考えるためさ。考えるために話をする。それしかない。言葉で考えを伝えるのが人間だ」
「難しいことなのね。人生はもっと簡単なはずよ。『三銃士』の話はとても美しいけど、恐ろしい」
「恐ろしいが意味がある。つまり…人生をあきらめた方がうまく話せるのだ。人生の代償…」
「命がけなのね」
「話すことはもう一つの人生だ。別の生き方だ。わかるかね。話すことは、話さずにいる人生の死を意味する。うまく説明できたかな。話すためには一種の苦行が必要なんだ。人生を利害なしに生きること」
「でも毎日の生活には無理よ。つまりその…」
「利害なしに。だから人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。日常生活から別の人生への飛翔。思考の人生。高度の人生というか。日常的な無意識の人生を抹殺することだ」
「考えることと話すことは同じ?」
「そうだと思う。プラトンも言っている。昔からの考えだ。しかし思考と言葉を区別することはできない。意識を分析しても思考の瞬間を言葉でとらえられるだけだ」
ここでパランが言うように、常に言葉は人間を裏切るけれども、他方で「人間も言葉を裏切る」のだ。私たちは、考えや心情をそっくりそのまま言葉へとトレースすることはできない。これは非常に悲劇的なことだ。だけれども、私たちは話さねばならない。そのために「仕方なく」「ありものの」言葉で「間に合わせる」。考えや心情にぴったりと合わないけれども、「一時しのぎ」の言葉で「代用」する。時に沈黙にほだされながら…。それは何と言葉に対して不誠実な態度だろうか。だから、言葉が人間を裏切った分だけ人間も言葉を裏切るのだ。人間と言葉は許嫁のようなものだ、と思う。ある契約関係で結ばれ、関係を解くことはできない。人間は言葉を抱いて生まれ、言葉とともに死んでいくのである。

 これは、リオタールが『文の抗争』で問題としたこととつながってくる、と思う。リオタールは「抗争」という言葉で、争いの当事者どうしの議論に同じ判断規則や文法規則が適用できない状況を指している。そして、「不当な被害」という言葉でもって、規則が存在しないために償うことのできない、さらにはその被害の存在を立証することもできない被害のことを指している。不当な被害の「犠牲者」は、それについて「語ることも語らないこともできる」という能力すら喪失している。「語らないでいることができる」ことと「語ることができない」ことは厳格に区別されるのである。リオタールにとって、沈黙は一つの言葉でありうるからだ。この抗争と不当な被害を巡る議論はダイレクトにホロコーストの問題へと接続される。
 ところで、リオタールは文ないし言語に絶対の信を置くが、そもそも人と言葉との関係も抗争の状態にあるように思える。人と言葉は、常に=既に相互に裏切り合う運命にある。この恐ろしい共依存関係において生じた不当な被害を法廷に持ち込むことは不可能である。だからこそ「人生をあきらめた方がうまく話せる」に違いない。パランの言う通り、饒舌の代償は人生への諦念である。しかしこの抗争と不当な被害という言語化不可能な、存在の立証が不可能な何か――これを人生においてどう扱うかであらゆるものに対するアティチュードは変化していくだろう。それこそ人生そのものが転回していくような変化が訪れるはずだ。

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