2012年11月11日日曜日

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(ポール・トーマス・アンダーソン 2007)―カメラ・アイと家族の希求

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の「カメラ・アイ」


 映画を物語内容や登場人物の「キャラクター」のみによってのみ語る批評に意味は無い。映画とは、私たちがこの眼で観る映像である――そのことからひとまず始めよう。映像は私たちが知覚できるよりも多くのことを常に語っているのだから、それに耳を傾けてみよう。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映像、構図はとても美しいのだから。

 私たちが映画を観るとき、その映画が「現実的」なものであればあるほど、そこに映し出される映像に引き込まれ、のめり込み、その映画の内部に私たちが立っているかのように錯覚するだろう。その映画がまるで、自分の目の前で展開される現実のように思い込むだろう。しかし、言うまでもなく鑑賞者である私たちと映画内の現実とには幾次もの隔たりが存在している。私たちは何かしらのメディア(それはカメラであり、フィルムやDVDなどの映像メディアであり、スクリーンやテレビ画面であり、究極的には私たちの眼というメディアである)を通して映画を観ざるをえないのであり、そこには空間的、時間的な隔たりが幾層にも横たわっている。
 本作のカメラワークは、そういった鑑賞者と映画との絶対的に縮まることのない距離感を感じさせるものになっているかのように思える。なぜなら『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のカメラは冷徹で、厳しく、どこまでも客観的に物語を捕捉しているからである。登場人物たちの誰に肩入れすることもなく、映画の内的現実に対して一定の距離を保ち、カメラはあくまでも映画を外部から眺めている。そのことをカメラが自ら語りだすシーンが二、三回ほどある。それは、液体がカメラのレンズにかかる場面である。通常、レンズに液体がかかるような撮影手法は避けられるだろう。なぜなら、レンズに液体がかかったり水滴がつき、それがスクリーン上に映しだされてしまえば、観客はカメラ・レンズの存在を否応なく意識してしまい、映画への没入が妨げられるからだ。しかし、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』においては、カメラのレンズに液体がかかる演出が数回ある。これは、意図的な演出だろう。カメラのレンズという媒介が存在することを観客に想起させ、観客をあくまで『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映画的現実から引き離そうとする演出である。


ダニエルが希求する家族、血


 さて。私たちは「カメラ・アイ」から一旦眼を離し、物語内容へ立ち入っていくことにしよう。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公、ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)は石油の採掘に全てを賭け、物語を通して富を得るとともに真に欲するものを見失っていく。ダニエルはどこまでも強欲で富を追い求めるが、しかし、彼がなぜそこまで強欲であるのか、なぜそこまで金に執着するのかはこの映画では全く語られない。なぜだろうか。それは、アメリカン・スピリットやフロンティア・スピリット、「古き良きアメリカ」といったアメリカ人が懐旧するものへ批判的な眼差しを向け、それらが(一面では)空疎で虚無的なものであることを告発するためではないだろうか。

 ダニエルの過去という中間項を抜きさってこの映画で描かれるのは、ダニエルの人間不信、強欲さ、そして血族への異様な執着である。彼はおそらく物質的なもののみを崇拝する唯物論者である。彼は人間も神も信じないが、石油と血の繋がりのみを信じているからだ。
 しかし、真の家族を探し求めるダニエルはどうやってもそれを得ることができない。彼が事業のパートナーとする二人、つまり彼の息子H・Wと弟を名乗るヘンリー(ケヴィン・J・オコナー)とは、ダニエルは血族ではない(そしてダニエルは二人との繋がりを自ら断ち切る)。それは皮肉であり、悲劇的である(しかし、家族を求めるダニエルにはなぜ妻や恋人がいないのだろうか。この映画には女性がほとんど出てこない。ダニエルが同性愛者であるという指摘も間違いではないのかもしれない。そうであれば、より一掃悲劇的である)。また、彼は石油のパイプラインを通すため、確執関係にあるイーライ・サンデー(ポール・ダノ)という福音派の宣教師に侮辱的な洗礼を受ける。その洗礼によって、イーライとその信者たちはダニエルを「兄弟」と呼ぶ。ここでも彼が得るのは偽物の家族である。
 ダニエルが家族を、すなわち「血」を希求すればするほど、それは滑稽なまでに遠ざかっていき、偽物しか得ることができない。唯物論的なものを信じているにも関わらず、である。


『ゴッドファーザー PART II』の変奏として――ダニエルとマイケル


 上記のような「カメラ・アイ」の客観性や冷徹さ、そして富を得ながらも家族を希求しそれを失っていく男。この二点から、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は『ゴッドファーザー PART II』と比較されるべきだろう。いや、むしろ『ゴッドファーザー PART II』の変奏と言ってもいいのかもしれない。『ゴッドファーザー PART II』のおけるマイケルは、コルレオーネ・ファミリーの存続のためを思って冷徹な運営方法を用い、同胞たちを自ら切り捨てていくが、それによって「ファミリー」の結束は崩れていく。一方で、ないがしろにしていた妻を始めとする自身の家族とも疎遠となっていく。マイケルは、遂に兄フレドをも殺してしまう。
 家族(血)を希求しながらも家族を失い、得たものは富と「汚れた血」である――『ゴッドファーザー PART II』のマイケルと『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエルはこの点で相似形をなしている。『ゴッドファーザー PART II』において、若きヴィト・コルレオーネが得たものを、マイケルとダニエルの両者は共に手に入れることはできなかったのである。すなわち、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は過去のない、より悲劇的で批評性にあふれた『ゴッドファーザー PART II』の冷酷な変奏である。そして、『ゴッドファーザー PART II』に比肩するような傑作である。

0 件のコメント:

コメントを投稿