2012年1月10日火曜日

MAHOΩ『摩・歌・不・思・戯ep』



ポップはテレビには映らない。ポップは電通と博報堂とアサツーディ・ケイによるキャンペーンとTEPCOの提供では報道されない…。なんてね。去年、素晴らしい楽曲を僕らに届けてくれたShing02とHUNGERの言葉を引用したくなる(「アサツーディ・ケイ」は勝手に足した)。

何故かと言えば、「ポップ」を騙るポップでない連中があまりにも酷いからだ。だからこそ、倦まず弛まずこう言おう。「ポップは僕らの手の中だ!」と。

未成熟性、あるいはアマチュアリズムを売りさばく昨今のアイドル・ブーム(しかも、もっと酷い事に彼女たちアイドルは、中途半端なプロ意識まで持ち合わせている)。愚鈍な歌詞、下手くそな歌、過剰な音を詰め込んだしょうもない打ち込み音源と適当なメロディ…。もううんざりだぜ。

長くなった。さて、MAHOΩ。「MAHOΩ」と書いて「マホー」と読む。彼女らは、可愛い女の子二人がフロントで歌い踊る、目にも優しい八人編成のロック・バンドだ。そして、『摩・歌・不・思・戯ep』は彼女たちの1stデモCD-Rだ。

ヴォーカリストの二人の、なんだか少し不安定な歌唱を聴くと、MAHOΩもアマチュアリズムを安売りするアイドルのように、もしかしたら思われるかもしれない。しかし、彼女たちを素晴らしいポップ・バンドたらしめているものは、ニュー・ウェイヴィで強靭なバンド演奏(特にドラムスと、素晴らしい音色を聴かせる3キーボーズ)と、気の利いたアレンジとメロディを持った楽曲群だ。まるで大貫妙子と矢野顕子がYMOとタッグを組んでいた頃の音楽のようじゃあないか(更に言うなら、MAHOΩには、電子音の実験とポップ化が盛んに行われていた80年代の美味しい部分を掬い上げたシャープさとキレの良さがある)。

まずは名曲「しかけの恋」を聴いてほしい。「しかけの恋」は最早、ポップ・クラシックだと言い切りたいほどの貫禄と素晴らしいメロディを湛えている。


MAHOΩ【しかけの恋】2011/8/28 早稲田ZONE-B



そして、ユーモラスでキッチュなダンス! これこそがアマチュアリズムとプロフェッショナリズムの垣根を突き崩し、パフォーマンスとハプニングの境を曖昧にする、素晴らしきMAHOΩの魅力だ。その魅力は「僕らに愛を!」という曲に凝縮している。


MAHOΩ【僕らに愛を】2011/8/28 早稲田ZONE-B



「僕らに愛を!」だなんて、まさにその通りだ。僕らには愛が必要だ。洒落を織りまぜ、取り留めのない愛を歌う詞は、なんだかよくわからないけれど心に残る。でも、なんだかよくわからないからこそ良い。簡単にわかってたまるか。

これからMAHOΩは、魔法じかけの洗練されたポップをどんどん更新していき、より多くの人に届けるに違いない。僕らにポップを!

2012年1月9日月曜日

昆虫キッズ『ASTRA / クレイマー、クレイマー』



なんにせよ、インディペンデントで活動を行うということはとても勇気があることだ。私は「インディ・ロック」という言葉を気に入っている。ポジティヴィティを放っている言葉だ。その言葉の響きに詰まっているものは、探究心、好奇心、喜び、逡巡と陰り、音楽に対する真摯さ(あるいはその逆)、ユーモア、そして「とても良い予感」だと思っている。

昆虫キッズはそんなインディ・ロックの急先鋒である。彼らの音楽は常にオルタナティブへと突き進んでいるし、ヴォーカリスト高橋翔は自らの言葉を研ぎ澄ませることをやめない。新曲が届けられるたびにワクワクする。ライブに足を運べば、トリックスターのような飄々とした立ち居振る舞いとは裏腹に、その熱量に圧倒される。一見ドリーミーでかわいらしい夢を、時にはちょっとした悪夢へと反転する夢を突きつけるのが昆虫キッズだ。

彼らの新しい両A面シングル『ASTRA / クレイマー、クレイマー』も本当に素晴らしい。

特に「ASTRA」。この曲は、ライブ・ヴァージョンが「暑中見舞いver.」として2011年の夏に無料で配信されていた。そのヴァージョンと演奏の骨格はほとんど変わっていないが、シングルに録音されたヴァージョンはこちらを不安にさせるほど恐ろしい音になっている。まるでスティーヴ・アルビニが録音したかのような破滅的で攻撃的なドラムスの音、気味の悪い音のギターとユニゾンするMC.sirafuのスティールパン、演奏を突如切り裂くトランペット、そして意味のくびきに引っかかり続ける言葉が入り乱れている。


昆虫キッズ/ASTRA



「それからのことなんか思い出せないよ」「あれからのことなんか話したくないよ」と、奇妙な譜割りで歌う高橋翔は詩人だ(そして彼が作ったこの「ASTRA」の、悪夢のようなPVをご覧いただければ分かる通り、変態性を備えた天才だ。ブラッドフォード・コックスの昨年のアルバム・ジャケットのようなコスプレまでしている)。これらのフレーズには、否が応でも「あの日」以降の影が忍び込んでいる。

この音を聴くと、劣悪な音で封じ込められた2009年の1stアルバム『My Final Fantasy』(大好きなアルバムだ)から、彼らはレコーディング・バンドとしても着実に成熟し始めていると感じる。

2012年1月3日火曜日

cero『WORLD RECORD』



ceroという名はずっと昔に聞いたことがある、気がする。cero。彼らとは同じ空気を常に吸っていた。そんな気がする。contemporary exotica rock orchestraの略で、cero。

和歌山出身の友人にこんなことを言われて、はっとしたことがある。「君の好きな音楽は『郊外の音楽』だよ」と。そうか。その通りだ。

あるいは冗談でこんなことを言っていた人がいる。「23区外は東京の『植民地』だよ」と。

彼らの音楽が物語るのは東京の西、あるいは東京の周辺(埼玉だって千葉だってどこだっていい.そこは中心じゃない)、つまり再開発によってめちゃくちゃにされたベッドタウンで生きる(あるいは生きた)私たちの音楽だ。私たちに与えられたかけがえのない生きる時間を、かけがえのない労働力を下らない銭に変換し、その日その日を何とはなしにやり過ごす私たちの音楽だ。ceroが描くサウンドスケープはそんな風だ。


cero - 21世紀の日照りの都に雨が降る_100623



ceroの「入曽」という曲を聴いてみよう。気づけばほら、「ここは衛星都市」だ。「ネオンぴかぴか パチンコ屋」が駅前で幅をきかせている。早朝にはその前で右翼の街宣車が悪態を吐いているだろう。「東京」はさぞかしエキゾチックなところだろう。なにせ「ここから東京まで行くならショート・トリップ」だから…。

ここはどこなんだろう? ここは東京? 東京の灯りは遠くに見えたけれど、大停電で灯りも見えなくなってしまった…。


cero / 大停電の夜に - PV



ceroの産み落とした名盤『WORLD RECORD』にはそんな微かな政治性と、微かな抵抗の源が刻まれている。少なくとも私にはそう聴こえる。ナイーヴではいられない。