2012年6月9日土曜日

2012年6月8日の日記 死から遠く離れて

戸田ツトムさんの『陰影論』(青土社)という本を読んでいる。肩書きは「グラフィック・デザイナー」ということだが、「装幀家」と言ってもいいのではないか。わたしが持っている本の中にも、戸田さんが装幀したものは多い。ドゥルーズの訳書など、いわゆる現代思想の本を多く手がけているからだ。戸田さんのデザインはそれと見てすぐにわかる。凛としている、と言おうか。それ以外に戸田さんの作った本を形容する言葉を思いつかない。


『陰影論』の第一章「弱さを聴く」では、戦後社会が死を遠ざけてきたことを取り上げている。例えば、右のような事例。阪神淡路大震災時に遺体の収容と安置が全く進まないことを受け、ダンボール製の棺が開発された。しかし、ダンボールの棺の導入の申し出を受けた自治体の全てが、これを拒否した、と。そして、死への過程にデザインはいかに携わるべきか、ダンボールの棺がその一つの示唆なのではないか、と戸田さんは述べている。


第一章の文章の初出は2006年と書いてある。この本が出たのは今年の二月であるから、編集者は昨年の大災害を受けてこの文章を巻頭に持ってきたのだろう。昨年の災害における、遺体の収容や火葬がどのように行われたのか詳しくは知らないが、それが全くスムーズに進んでいなかったことは聞き知っていた。結局、日本人は過去に学んでいなかったことになる。死に対して準備ができていなかったことになる。そりゃ、そうだ。災害は予測できるものじゃない。しかし、予測はできなくとも、災害に備え、予想される損害を最小限にしようと努力しておくことはできる。それが、「リスク管理」というべきものだ。


リスク管理の強迫観念に追われ、潜在するリスクを絶えず排除しようとする現代社会の落とし穴がここにあった。それは、死――すなわち最大のリスク、リスク以上のリスク、リスクですらないリスク――に対する耐性が全くないということである。とかく死を遠ざけ、死を見なかったことにし、死について考えることを延期する。これが、現代社会に生きる者と言わず、人間存在の「癖」である。この傾向は、現代、更に強くなっているのではないか。葬儀屋のフランチャイズ化、霊柩車の不可視化、火葬場のデパート化、墓地の公園化、等々。死にまつわるものや、死を弔うことが、その見た目をどんどん擬態させていく。更に悪いことに、そうしなければならないという要請のもと、資本と手を結んでいく。


以上のことは、戸田さんの「弱さを聴く」を読み、また、祖父母の死と葬儀に立ち会って感じたことである。祖父は二週間前に亡くなった。亡くなる三日前に、祖父がもうすぐ死ぬことをわたしは悟った。私は戸田さんが模索するデザインのような、衰退していく存在に手を添えることができなかった。ただ、今まさに死んでいこうとする祖父の傍らに立ち、手や肩に触れることしかできなかった。つまり、祖父の死をデザインできなかった。


わたしは常に「生きていくことは死んでいく」ことだと考えるようにしている。「メメント・モリ」という言葉の衝撃を知ったときからそう考えている。生きていくことは死んでいくことであり、死を延期しようとする営為である。つまり、生きていることそれ自体が、生と死のあわいを漂流する中途半端極まりない行為だ。生と死は二項対立的なものではなく、コインの裏表のような一対のものとして考えねばならない。


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スーザン・ソンタグの『写真論』(晶文社)を読んでいる。写真について少し考える機会があったので。エッセイなので文章はなかなか大雑把だ。が、さすが写真論の古典というだけあって、聴いたことのある内容ばかり。きっと皆がこれを元ネタとして、中身を持ち去っているのであろう。


さて、盗むこと、掠め取ること、持ち去ること、これらは重要なことであると思う。古きは悪しき。「古典」が失効し、個人主義の究極的飽和状態の現代において、レファランスは失くなった。唯一のレファランスは「私」である。世論と法権力によるパクりのホロコーストが行われる。こうして後ろ盾という厚みを失った意見を纏うことが通常となった。理論武装は不必要である。手持ちの弾を適当に投げれば良い。


典拠を失った亡霊が跋扈する今こそ、盗み、パクることが必要だと思う。膨大なレファランスで理論武装すること。元ネタの原型をとどめぬほどそれを切り刻むこと。引用し、サンプリングし、それらをパッチワークし、コラージュすること。90年代のヒップホップやベックではまだ甘い。例えば…リッチー・ホウティンのダンス・ミュージックのような、あるいは梅ラボの絵のようなハイパー・パッチワークを実現すること。秩序と無秩序を接続させてショートを起こさせ、予測不可能なノイズを発生させ、不明瞭なグレーゾーンを生み出すことを目指して。

2012年6月5日火曜日

2012年6月4日の日記 ヴァーチャル資本主義

テレビや新聞を見ると、やれ株安だ、やれ円高だ、TOPIXはバブル以来最安値だ、ヨーロッパの信用不安だ、等々騒いでいる。因果な時代に生まれついたものだ。金融資本主義は細かな数字の上がり下がりに眼を光らせる。その数字の浮き沈みに一喜一憂する。数字のちょっとした変化が莫大な損失と利益を吐き出す。人間という動物は、一体なんでこんな馬鹿げたことをやっているんだろう、と思う。ヴァーチャルなゲーム経済の駆け引きで、不利益を被るのは末端の人間である。


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今、友人に借りたチャールズ・ミンガスの『ミンガス・アット・アンティーブ』を聴いている。これが素晴らしい。チャールズ・ミンガスは私の一番好きなジャズ・マンだ。だが、実は私はミンガスのアルバムを手元に持っていない。彼のアルバムは全て友人に借り受けた。因みに、その次に好きなジャズ・ミュージシャンは、オーネット・コールマン(オーネットのアルバムでは『フリー・ジャズ』が最も好きだ)。三番目は、デューク・エリントン。そして、ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、マイルス・デイヴィスが同率四位かな。


チャールズ・ミンガスの音楽は汗臭くて泥臭い、熱気や体臭がムンと臭うような、こう言って良ければ、ちょっとばかりマッチョな音楽だ。ミンガスは、ルイ・アームストロングの荒々しさとデューク・エリントンの洗練とを同時に受け継いだ、いわゆるモダン・ジャズとしては類例のない音楽を作り上げたとわたしは思っている。異端、とまで言ってもいいかもしれない。エリントンの音楽というのも非常に独特で類するものがないが、ミンガスの音楽の孤立性、特異性というのは、ジェームズ・ブラウンやスライ・ストーン、更にはディアンジェロのそれに近いかもしれない。そのミンガスの魅力は、50年代末から60年代前半の傑作群に詰まっている。


吉祥寺に寄ったのでココナッツディスクでまたem recordsのレコードを買ってしまった。T.R. マハリンガムのPortrait Of A Prodigy : His Early Years, 1940s-50sというものだ。これがまた素晴らしい。南インドの音楽だが、時折お囃子のようにも聴こえるところがあり、「汎アジア」を感じる。


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昨日は寺島靖国さんの『JAZZ雑文集』という本を読んでいた。「雑文」の題にふさわしく、「へろへろ」なエッセイが並び、読んでいてなんだか気が抜ける。文章がちょっと変なところもある。ジャズと全然関係なかったり。でも面白い。「俺はそうは思わないなあ」とちょっと反感を抱いたり、「ふーん、そうなんだ」と思ったりしながら、妙な句読点の打ち方や、時折顔を見せる口語調などがなんとも愛らしく、読みながら心地良さを感じる。このような軽やかなエッセイを読むことは滅多にないので、楽しく読ませてもらっている。


この『JAZZ雑文集』を出版しているのはディスクユニオンの出版事業、「DU BOOKS」であり、これは「DU文庫」の第一弾である。ディスクユニオンはこのように出版にも力を入れ始めているし、制作部門も面白い音盤を出しており、頑張っていると(偉そうだが)思う。『JAZZ雑文集』は今年2月に出ているが、まだDU文庫の第二弾は出ていない。次が楽しみである。ところで、このDU文庫は装幀がとても凝っており、瀟洒なデザインが格好いい。実は、装幀の格好よさに惹かれて、この本を買った面もある。しかし、読むには少々難がある。まず、ビニールカバーが柔らかいために表紙として安定しないのと、ツルツルして持ちにくい(これはビニールカバー装幀の全ての本に共通する問題)。それと、二枚の紙を貼り合わせた紙が波打って、本を開くとベコベコする。更に、国内盤レコード風に「縦巻き帯」が付いていて格好いいのだが、これが本を開いたときにちょっと破れそうになる。装幀が凝っているのは嬉しいことだが、やはり、本を手に持って読んだときに読者がどう感じるかも考えて装幀をしてほしい、と思う。つまり、「用の美」である。

2012年6月2日土曜日

2012年6月2日の日記 ぼくら21世紀の常備在庫

だらだらとした日記を書こうと思う。このエントリーは誰のためにもならない、かなり私的な日記だ。そもそも、この「ポピュラー音楽について」と題したブログは、わたしが「ポピュラー音楽」だと思う音楽の中の、とりわけ日本のミュージシャンのアルバムについて感想を書こうと思っているブログである(ここ数エントリーは映画の感想になってはいるものの)。「レビュー」や「批評」ではなく、わざわざ「感想」とした点は、簡単に言ってしまえば「逃げ」だ。つまり、「レビュー」や「批評」たりうるものを書く自信がないので、「感想」ということにしておけば、読者が許してくれるだろう、というどうしようもなく卑しい魂胆による。そのようなこの「ポピュラー音楽について」などと大袈裟にも銘打ったブログで私事を垂れ流すのは気がひけるのだが、しかし、「ポピュラー音楽」はわたしの血肉でもあるので、日記を書くことも「ポピュラー音楽」について書くこともあまり相違はないと思っている。


なぜ日記を書くのか。なんとなくである。また、一つ(あるいは複数)の作品のまとまった感想を書くのはけっこう骨が折れるので、もっと肩の力を抜いた、思いつきを思いついたままに並べ立てる日記のほうが楽だからである。他に理由を挙げるとすれば、坂口恭平さんの『独立国家のつくりかた』を読んで、坂口さんが日々の行動をブログにあけすけに書いていることに影響されたからである(一時期、坂口さんのブログはよく読んでいた)。また、わたしはここ暫くFacebookとTwitterから撤退しているために、インターネット特有の下らない承認欲求(これは「欲求」ではなく殆ど「欲望」だと常々思う)が段々と首をもたげてきたからだ。「誰かに自分を見てほしい」という、しょうもない欲望がどこかにある。


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さて。今日は、鈴木鴻一郎責任編集『中公バックス 世界の名著54 マルクス エンゲルス I』を少し読んだ。そもそも数ある『資本論』の翻訳の中でこの抄訳本を手にとったのは、國分功一郎さんがブログでおすすめされていたからだ。先の冬に一度大学図書館で借りたのだが、読み通せずに返却してしまった。それで最近になってネット・オークションで一巻を購入して読んでいる。文章が非常に読み易くて良い。特に面白いのは鈴木鴻一郎さんによる巻頭の「『資本論』とはどういう書物か」という、厳格な研究に裏打ちされたエッセイ風の『資本論』紹介文である。日本での『資本論』需要の歴史や、マルクスがどのようにして『資本論』という書物を編んでいったのかが分かり易く書いてある。これを通読したらいつか完訳本にも挑戦してみたいものだ。やはり、ここまで資本という圧倒的な覇者に包摂されてしまった(そして、この瞬間にも包摂していく)世界で、資本主義の精緻な分析を行ったマルクスを読むことは必須だろうと思っている。これほどまでに「敵」とされ、「赤」として排除され、否定的なニュアンスを社会から押しつけられた「マルクス」「『資本論』」「共産主義」「左翼」という単語に相対的に対峙せねばならない。しかし、最新の『資本論』の翻訳本が日経BP社というビジネスマン向けの出版社から出ているというのが強烈な皮肉である。先に書いた鈴木鴻一郎さんの巻頭文に、『資本論』を金儲けの本だと勘違いしていた青年の話しが出ていたが、実際に金儲けのための本として売りだされているのである。因みにこの日経BP版『資本論』は祖父江慎さんの事務所、コズフィッシュの方が装幀しているそうだ。


ところで、マルクスに舞い戻ってきたのは、かのローザ・ルクセンブルク(もちろん、あのバンドのほうではない)の主著『資本蓄積論』の読書会に参加してきたからだった。ローザは、現代的な資本主義先進国が必ず胚胎している、農業・漁業等の一次産業の域外転嫁(アウトソーシング)という経済的暴力を見越している、ということだった。それにしてもわたしの先生の主催するこの自主研究会はとても勉強になる。ここで課題図書だったのは同時代社から2001年に出た太田哲夫訳『資本蓄積論(第三編)』で、これは絶版であり、Amazonのマーケットプレイスでは三万円近い値がついている。そんな値段で一体誰が買うというのだろう? 所謂「せどり」をやっているせこい輩が出品しているに違いない。しかし、どこかで安く手に入らないものだろうか(3000円なら買いたい)。一方で、2011年から『資本蓄積論』の新訳の刊行が始まっているようだ。まだ第一篇しか出ていないので、『資本蓄積論』の最も重要な部分と言われる第三編が出るのはいつになるのか分からないが、『資本蓄積論』はいずれ手に入れやすい状況になるだろう。




他方で、マルクスの亡霊を召喚するアーサー・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』を読んでいる。これがまた読みづらい本だが、非常に示唆に富んでいる。クローカーのハイデガー、ニーチェ、そしてマルクスを21世紀に召喚する戦法はなかなかうまくいっていると思う。この三者の思想家が核ではあるが、明らかにデリダ、ドゥルーズ、ドゥボール、ベンヤミン、ヴィリリオらに影響された単語が多く見られる。クローカーは、ハイデガーを援用し、現代をニヒリズムの蔓延した「倦怠」の時代として捉え、人間を受動的な「常備在庫」として総動員する社会であると喝破する。この「我々は『常備在庫』である」という痛烈な指摘や、「技術の時代は、形而上学の偏在によって形而上学が忘却される」という視線には舌を巻く。しかし、クローカーの危うさや問題点は、彼のいわば芸術至上主義的な志向にある。「技術の詩化」等々の文言によって、芸術や詩を金科玉条のごとく掲げるだけでは、技術の時代=21世紀の諸問題を解決できるわけはないのである。


あとは、つい最近亡くなった吉本隆明氏の主著『共同幻想論』を読んでいる。吉本氏もマルクスに強く影響を受けている。これは、わたしが自主でやろうとしている勉強会のための準備である。よく言われるように難解ではあるが、同じ事を反復的に語っているようにも思える。ただ、「共同幻想」はともかくとして、「対幻想」と「自己幻想」は非常に分かりづらい。


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先日、em recordsが出している里国隆のレコード、Wandering Shadow Of Southern Streets: Blind Itinerant Musician from Amami Islandがどうしても欲しくなったので新宿のディスクユニオンへ行った。これは、オフノートから出ている『あがれゆぬはる加那』と殆ど同一のジャケットで、曲目もそれに近いが、他の作品からも選曲されているベスト盤である。初めて聴いた里国隆の鮮烈な歌声には圧倒されるばかりだ。プロフェッショナルじみてはおらず、がさつで粗野な歌ではあるが、そうであるからこそ親しみ深く、胸を締め付ける。よく「ブルース」とも評されるが、きっとこれは奄美の歌そのものであり、それ以外の何物でもないだろうと思う。


ディスクユニオンに寄ると、どうしても財布の紐が緩くなってしまう。新宿店の4階、ラテン・ブラジルのフロアーではキング・サニー・アデの『ジュジュ・ミュージック』と、ティナリウェンの昨年作『タッシリ』のCDを中古で買ってしまった。まるで「ワールド・ミュージック初心者」のようなセレクトで少し恥ずかしい。無駄な虚栄心だ。ついでにレジの横にあった「ラティーナ」6月号も買ってしまう。


アデの『ジュジュ・ミュージック』は、膨大な情報量を誇るワールド・ミュージックのサイト、Quindemboで推されていたのが記憶にあり、安かったので買ってみた。有名な『シンクロ・システム』や『オーラ』よりも影が薄い本作だが、少しばかりオーセンティック(?)なジュジュが聴け、その二作よりもだいぶしっくりくる。シンセサイザーよりもスティール・ギターが目立っている。わたしはこちらのほうが好きだ。これらアデの作品はマルタン・メソニエのプロデュースである。同じくマルタン・メソニエが制作したハレドの『クッシェ』(500円で手に入れた)も最近よく聴いている。


ティナリウェンは2nd『アマサクル 』と、ジャスティン・アダムズのプロデュースによる名作の誉れ高い『アマン・イマン〜水こそ命』しか持っていない。最新作『タッシリ』はそれらと比べて、よりパーソナル(?)で泥臭く、アコースティックでローファイな音の感触が格好いい。"Tameyawt"に象徴されるようなイブラヒムの弾き語りが特に良い。繰り返し繰り返し聴いてしまう。




その他には、私が今最も惹かれる東京のバンド、ホライズン山下宅配便のニュー・アルバム『りぼん』、ネット上でたくさん落としたミックステープ(グッチ・メインの最新ミックステープ、I'm Upデス・グリップスのExmilitary等)、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの『他の岬』、シキル・アインデ・バリスター『ニュー・フジ・ガーベッジ』、やっと良さが分かったフージーズの『ザ・スコア』、アウトキャストの『スタンコニア』などをよく聴いている。


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早稲田松竹でテオ・アンゲロプロスの追悼上映が二週間行われていた。『旅芸人の記録』『霧の中の風景』、『永遠と一日』を観た。これまでの映画体験をひっくり返されるような作品たちで、彼らに向ける言葉を未だ見つけられずにいる。




他には、今更だが古典『天井桟敷の人々』のDVDを借りて観た。