2012年6月2日土曜日

2012年6月2日の日記 ぼくら21世紀の常備在庫

だらだらとした日記を書こうと思う。このエントリーは誰のためにもならない、かなり私的な日記だ。そもそも、この「ポピュラー音楽について」と題したブログは、わたしが「ポピュラー音楽」だと思う音楽の中の、とりわけ日本のミュージシャンのアルバムについて感想を書こうと思っているブログである(ここ数エントリーは映画の感想になってはいるものの)。「レビュー」や「批評」ではなく、わざわざ「感想」とした点は、簡単に言ってしまえば「逃げ」だ。つまり、「レビュー」や「批評」たりうるものを書く自信がないので、「感想」ということにしておけば、読者が許してくれるだろう、というどうしようもなく卑しい魂胆による。そのようなこの「ポピュラー音楽について」などと大袈裟にも銘打ったブログで私事を垂れ流すのは気がひけるのだが、しかし、「ポピュラー音楽」はわたしの血肉でもあるので、日記を書くことも「ポピュラー音楽」について書くこともあまり相違はないと思っている。


なぜ日記を書くのか。なんとなくである。また、一つ(あるいは複数)の作品のまとまった感想を書くのはけっこう骨が折れるので、もっと肩の力を抜いた、思いつきを思いついたままに並べ立てる日記のほうが楽だからである。他に理由を挙げるとすれば、坂口恭平さんの『独立国家のつくりかた』を読んで、坂口さんが日々の行動をブログにあけすけに書いていることに影響されたからである(一時期、坂口さんのブログはよく読んでいた)。また、わたしはここ暫くFacebookとTwitterから撤退しているために、インターネット特有の下らない承認欲求(これは「欲求」ではなく殆ど「欲望」だと常々思う)が段々と首をもたげてきたからだ。「誰かに自分を見てほしい」という、しょうもない欲望がどこかにある。


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さて。今日は、鈴木鴻一郎責任編集『中公バックス 世界の名著54 マルクス エンゲルス I』を少し読んだ。そもそも数ある『資本論』の翻訳の中でこの抄訳本を手にとったのは、國分功一郎さんがブログでおすすめされていたからだ。先の冬に一度大学図書館で借りたのだが、読み通せずに返却してしまった。それで最近になってネット・オークションで一巻を購入して読んでいる。文章が非常に読み易くて良い。特に面白いのは鈴木鴻一郎さんによる巻頭の「『資本論』とはどういう書物か」という、厳格な研究に裏打ちされたエッセイ風の『資本論』紹介文である。日本での『資本論』需要の歴史や、マルクスがどのようにして『資本論』という書物を編んでいったのかが分かり易く書いてある。これを通読したらいつか完訳本にも挑戦してみたいものだ。やはり、ここまで資本という圧倒的な覇者に包摂されてしまった(そして、この瞬間にも包摂していく)世界で、資本主義の精緻な分析を行ったマルクスを読むことは必須だろうと思っている。これほどまでに「敵」とされ、「赤」として排除され、否定的なニュアンスを社会から押しつけられた「マルクス」「『資本論』」「共産主義」「左翼」という単語に相対的に対峙せねばならない。しかし、最新の『資本論』の翻訳本が日経BP社というビジネスマン向けの出版社から出ているというのが強烈な皮肉である。先に書いた鈴木鴻一郎さんの巻頭文に、『資本論』を金儲けの本だと勘違いしていた青年の話しが出ていたが、実際に金儲けのための本として売りだされているのである。因みにこの日経BP版『資本論』は祖父江慎さんの事務所、コズフィッシュの方が装幀しているそうだ。


ところで、マルクスに舞い戻ってきたのは、かのローザ・ルクセンブルク(もちろん、あのバンドのほうではない)の主著『資本蓄積論』の読書会に参加してきたからだった。ローザは、現代的な資本主義先進国が必ず胚胎している、農業・漁業等の一次産業の域外転嫁(アウトソーシング)という経済的暴力を見越している、ということだった。それにしてもわたしの先生の主催するこの自主研究会はとても勉強になる。ここで課題図書だったのは同時代社から2001年に出た太田哲夫訳『資本蓄積論(第三編)』で、これは絶版であり、Amazonのマーケットプレイスでは三万円近い値がついている。そんな値段で一体誰が買うというのだろう? 所謂「せどり」をやっているせこい輩が出品しているに違いない。しかし、どこかで安く手に入らないものだろうか(3000円なら買いたい)。一方で、2011年から『資本蓄積論』の新訳の刊行が始まっているようだ。まだ第一篇しか出ていないので、『資本蓄積論』の最も重要な部分と言われる第三編が出るのはいつになるのか分からないが、『資本蓄積論』はいずれ手に入れやすい状況になるだろう。




他方で、マルクスの亡霊を召喚するアーサー・クローカー『技術への意志とニヒリズムの文化』を読んでいる。これがまた読みづらい本だが、非常に示唆に富んでいる。クローカーのハイデガー、ニーチェ、そしてマルクスを21世紀に召喚する戦法はなかなかうまくいっていると思う。この三者の思想家が核ではあるが、明らかにデリダ、ドゥルーズ、ドゥボール、ベンヤミン、ヴィリリオらに影響された単語が多く見られる。クローカーは、ハイデガーを援用し、現代をニヒリズムの蔓延した「倦怠」の時代として捉え、人間を受動的な「常備在庫」として総動員する社会であると喝破する。この「我々は『常備在庫』である」という痛烈な指摘や、「技術の時代は、形而上学の偏在によって形而上学が忘却される」という視線には舌を巻く。しかし、クローカーの危うさや問題点は、彼のいわば芸術至上主義的な志向にある。「技術の詩化」等々の文言によって、芸術や詩を金科玉条のごとく掲げるだけでは、技術の時代=21世紀の諸問題を解決できるわけはないのである。


あとは、つい最近亡くなった吉本隆明氏の主著『共同幻想論』を読んでいる。吉本氏もマルクスに強く影響を受けている。これは、わたしが自主でやろうとしている勉強会のための準備である。よく言われるように難解ではあるが、同じ事を反復的に語っているようにも思える。ただ、「共同幻想」はともかくとして、「対幻想」と「自己幻想」は非常に分かりづらい。


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先日、em recordsが出している里国隆のレコード、Wandering Shadow Of Southern Streets: Blind Itinerant Musician from Amami Islandがどうしても欲しくなったので新宿のディスクユニオンへ行った。これは、オフノートから出ている『あがれゆぬはる加那』と殆ど同一のジャケットで、曲目もそれに近いが、他の作品からも選曲されているベスト盤である。初めて聴いた里国隆の鮮烈な歌声には圧倒されるばかりだ。プロフェッショナルじみてはおらず、がさつで粗野な歌ではあるが、そうであるからこそ親しみ深く、胸を締め付ける。よく「ブルース」とも評されるが、きっとこれは奄美の歌そのものであり、それ以外の何物でもないだろうと思う。


ディスクユニオンに寄ると、どうしても財布の紐が緩くなってしまう。新宿店の4階、ラテン・ブラジルのフロアーではキング・サニー・アデの『ジュジュ・ミュージック』と、ティナリウェンの昨年作『タッシリ』のCDを中古で買ってしまった。まるで「ワールド・ミュージック初心者」のようなセレクトで少し恥ずかしい。無駄な虚栄心だ。ついでにレジの横にあった「ラティーナ」6月号も買ってしまう。


アデの『ジュジュ・ミュージック』は、膨大な情報量を誇るワールド・ミュージックのサイト、Quindemboで推されていたのが記憶にあり、安かったので買ってみた。有名な『シンクロ・システム』や『オーラ』よりも影が薄い本作だが、少しばかりオーセンティック(?)なジュジュが聴け、その二作よりもだいぶしっくりくる。シンセサイザーよりもスティール・ギターが目立っている。わたしはこちらのほうが好きだ。これらアデの作品はマルタン・メソニエのプロデュースである。同じくマルタン・メソニエが制作したハレドの『クッシェ』(500円で手に入れた)も最近よく聴いている。


ティナリウェンは2nd『アマサクル 』と、ジャスティン・アダムズのプロデュースによる名作の誉れ高い『アマン・イマン〜水こそ命』しか持っていない。最新作『タッシリ』はそれらと比べて、よりパーソナル(?)で泥臭く、アコースティックでローファイな音の感触が格好いい。"Tameyawt"に象徴されるようなイブラヒムの弾き語りが特に良い。繰り返し繰り返し聴いてしまう。




その他には、私が今最も惹かれる東京のバンド、ホライズン山下宅配便のニュー・アルバム『りぼん』、ネット上でたくさん落としたミックステープ(グッチ・メインの最新ミックステープ、I'm Upデス・グリップスのExmilitary等)、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの『他の岬』、シキル・アインデ・バリスター『ニュー・フジ・ガーベッジ』、やっと良さが分かったフージーズの『ザ・スコア』、アウトキャストの『スタンコニア』などをよく聴いている。


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早稲田松竹でテオ・アンゲロプロスの追悼上映が二週間行われていた。『旅芸人の記録』『霧の中の風景』、『永遠と一日』を観た。これまでの映画体験をひっくり返されるような作品たちで、彼らに向ける言葉を未だ見つけられずにいる。




他には、今更だが古典『天井桟敷の人々』のDVDを借りて観た。

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