上記のような「カメラ・アイ」の客観性や冷徹さ、そして富を得ながらも家族を希求しそれを失っていく男。この二点から、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は『ゴッドファーザー PART II』と比較されるべきだろう。いや、むしろ『ゴッドファーザー PART II』の変奏と言ってもいいのかもしれない。『ゴッドファーザー PART II』のおけるマイケルは、コルレオーネ・ファミリーの存続のためを思って冷徹な運営方法を用い、同胞たちを自ら切り捨てていくが、それによって「ファミリー」の結束は崩れていく。一方で、ないがしろにしていた妻を始めとする自身の家族とも疎遠となっていく。マイケルは、遂に兄フレドをも殺してしまう。
家族(血)を希求しながらも家族を失い、得たものは富と「汚れた血」である――『ゴッドファーザー PART II』のマイケルと『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエルはこの点で相似形をなしている。『ゴッドファーザー PART II』において、若きヴィト・コルレオーネが得たものを、マイケルとダニエルの両者は共に手に入れることはできなかったのである。すなわち、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は過去のない、より悲劇的で批評性にあふれた『ゴッドファーザー PART II』の冷酷な変奏である。そして、『ゴッドファーザー PART II』に比肩するような傑作である。
このモンテーニュの警句は、映画を最後まで観ると意味を持ってくる。ナナは役者として自分を他人に「貸す」のではなく、売春婦となることで自分を他人に「与え」てしまった。魂を売ってしまったのだ。そこにこそナナの悲劇の原因がある。だから、この映画の原題、Vivre sa vie(自分の人生を生きる)というのも映画を全て見終えて初めて有意味となる。ナナは自分の人生を生きただろうか? もちろん答えは否である。邦題の『女と男のいる舗道』は美しいタイトルではあるけれども、そういう意味では最悪だと思う。ストレートに『自分の人生を生きる』とした方が効果的ではある。
ミツメのライブは始めドラムがもたっており、あの少し不安定な(しかしそれが魅力でもある)ボーカルとも相まって「大丈夫かな?」と心配になった。とは言え、傑作『eye』で完成された音をそのままライブで表現しており、演奏の完成度と密度は非常に高いと思った。1stからの曲はなく、全曲『eye』からだった。私としては、レコードとほとんど違わぬ演奏にライブバンドとして魅力を感じるかと言えば少し疑問だ。ただ、淡々と進んでいく演奏に仄かな熱情は確かに感じられたし、スリリングに絡み合う二本のギターのプレイにはワクワクした。
疲れてしまったので、Nag Ar Junaの演奏の途中で帰ってしまった。外には澤部さんが立っていた。