2012年11月17日土曜日

Jamie xx, Far Nearer / Beat For―光さすダブステップ




 ロンドンのインディ・ロック・バンド、The xxのトラックメイカー/プロデューサー、ジェイミー・xx(本名ジェイミー・スミス)による初のソロシングル。ジェイミーはバンドの活動に留まらず、DJやリミキサーとしても活動している。ギル・スコット・ヘロンの復活作にして遺作、I'm New HereをリミックスしたWe're New Here(XLレコーディングズ)も話題となった。彼はアデル、レディオヘッド、フォー・テットやフローレンス・アンド・ザ・マシーンのなどのリミックスも手がけてきた売れっ子だ。

 このFar NearerとBeat Forという二曲を収めたシングルは、グラスゴーでダンス・ミュージックをリリースしているインディ・レーベルであるNumbers.から2011年にリリースされた。限定の12インチ盤は即完売したが、現在はiTunes Storeなどでダウンロード版を購入できる。

 両曲とも素晴らしいビート・ミュージックだ。Far Nearerは開放的で快楽的な7分弱のダンス・ミュージックで、ダブステップのビートを基調にしながらその先、ポスト・ダブステップの明るみへ突き抜けた傑作。まるで夜明けの日が注ぐような電子音が通奏低音で、可愛らしいスティール・パンの音やソウルフルなボーカル・サンプルがそれに彩りを加えている。なんともトロピカルなダブステップだ。



 Beat ForはBurialの音楽に強い影響を受けているであろう、クールなダブステップ。激しく攻撃的なビート、奇妙にうねるボーカル・サンプルが実にダークである。しかしBurialのような徹底的な殺伐感までは至らず、少しポップな親しみやすさやエモーショナルな感覚があるのがジェイミーらしいところだろうか。


2012年11月11日日曜日

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(ポール・トーマス・アンダーソン 2007)―カメラ・アイと家族の希求

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の「カメラ・アイ」


 映画を物語内容や登場人物の「キャラクター」のみによってのみ語る批評に意味は無い。映画とは、私たちがこの眼で観る映像である――そのことからひとまず始めよう。映像は私たちが知覚できるよりも多くのことを常に語っているのだから、それに耳を傾けてみよう。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映像、構図はとても美しいのだから。

 私たちが映画を観るとき、その映画が「現実的」なものであればあるほど、そこに映し出される映像に引き込まれ、のめり込み、その映画の内部に私たちが立っているかのように錯覚するだろう。その映画がまるで、自分の目の前で展開される現実のように思い込むだろう。しかし、言うまでもなく鑑賞者である私たちと映画内の現実とには幾次もの隔たりが存在している。私たちは何かしらのメディア(それはカメラであり、フィルムやDVDなどの映像メディアであり、スクリーンやテレビ画面であり、究極的には私たちの眼というメディアである)を通して映画を観ざるをえないのであり、そこには空間的、時間的な隔たりが幾層にも横たわっている。
 本作のカメラワークは、そういった鑑賞者と映画との絶対的に縮まることのない距離感を感じさせるものになっているかのように思える。なぜなら『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のカメラは冷徹で、厳しく、どこまでも客観的に物語を捕捉しているからである。登場人物たちの誰に肩入れすることもなく、映画の内的現実に対して一定の距離を保ち、カメラはあくまでも映画を外部から眺めている。そのことをカメラが自ら語りだすシーンが二、三回ほどある。それは、液体がカメラのレンズにかかる場面である。通常、レンズに液体がかかるような撮影手法は避けられるだろう。なぜなら、レンズに液体がかかったり水滴がつき、それがスクリーン上に映しだされてしまえば、観客はカメラ・レンズの存在を否応なく意識してしまい、映画への没入が妨げられるからだ。しかし、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』においては、カメラのレンズに液体がかかる演出が数回ある。これは、意図的な演出だろう。カメラのレンズという媒介が存在することを観客に想起させ、観客をあくまで『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の映画的現実から引き離そうとする演出である。


ダニエルが希求する家族、血


 さて。私たちは「カメラ・アイ」から一旦眼を離し、物語内容へ立ち入っていくことにしよう。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の主人公、ダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ=ルイス)は石油の採掘に全てを賭け、物語を通して富を得るとともに真に欲するものを見失っていく。ダニエルはどこまでも強欲で富を追い求めるが、しかし、彼がなぜそこまで強欲であるのか、なぜそこまで金に執着するのかはこの映画では全く語られない。なぜだろうか。それは、アメリカン・スピリットやフロンティア・スピリット、「古き良きアメリカ」といったアメリカ人が懐旧するものへ批判的な眼差しを向け、それらが(一面では)空疎で虚無的なものであることを告発するためではないだろうか。

 ダニエルの過去という中間項を抜きさってこの映画で描かれるのは、ダニエルの人間不信、強欲さ、そして血族への異様な執着である。彼はおそらく物質的なもののみを崇拝する唯物論者である。彼は人間も神も信じないが、石油と血の繋がりのみを信じているからだ。
 しかし、真の家族を探し求めるダニエルはどうやってもそれを得ることができない。彼が事業のパートナーとする二人、つまり彼の息子H・Wと弟を名乗るヘンリー(ケヴィン・J・オコナー)とは、ダニエルは血族ではない(そしてダニエルは二人との繋がりを自ら断ち切る)。それは皮肉であり、悲劇的である(しかし、家族を求めるダニエルにはなぜ妻や恋人がいないのだろうか。この映画には女性がほとんど出てこない。ダニエルが同性愛者であるという指摘も間違いではないのかもしれない。そうであれば、より一掃悲劇的である)。また、彼は石油のパイプラインを通すため、確執関係にあるイーライ・サンデー(ポール・ダノ)という福音派の宣教師に侮辱的な洗礼を受ける。その洗礼によって、イーライとその信者たちはダニエルを「兄弟」と呼ぶ。ここでも彼が得るのは偽物の家族である。
 ダニエルが家族を、すなわち「血」を希求すればするほど、それは滑稽なまでに遠ざかっていき、偽物しか得ることができない。唯物論的なものを信じているにも関わらず、である。


『ゴッドファーザー PART II』の変奏として――ダニエルとマイケル


 上記のような「カメラ・アイ」の客観性や冷徹さ、そして富を得ながらも家族を希求しそれを失っていく男。この二点から、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は『ゴッドファーザー PART II』と比較されるべきだろう。いや、むしろ『ゴッドファーザー PART II』の変奏と言ってもいいのかもしれない。『ゴッドファーザー PART II』のおけるマイケルは、コルレオーネ・ファミリーの存続のためを思って冷徹な運営方法を用い、同胞たちを自ら切り捨てていくが、それによって「ファミリー」の結束は崩れていく。一方で、ないがしろにしていた妻を始めとする自身の家族とも疎遠となっていく。マイケルは、遂に兄フレドをも殺してしまう。
 家族(血)を希求しながらも家族を失い、得たものは富と「汚れた血」である――『ゴッドファーザー PART II』のマイケルと『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエルはこの点で相似形をなしている。『ゴッドファーザー PART II』において、若きヴィト・コルレオーネが得たものを、マイケルとダニエルの両者は共に手に入れることはできなかったのである。すなわち、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は過去のない、より悲劇的で批評性にあふれた『ゴッドファーザー PART II』の冷酷な変奏である。そして、『ゴッドファーザー PART II』に比肩するような傑作である。

2012年11月4日日曜日

女と男のいる舗道(ジャン=リュック・ゴダール 1962)―言葉を裏切り、言葉に裏切られながら自分の人生を生きる

 特別観たいものが無い時はゴダールかヒッチコックの映画を観てしまう。




 『女と男のいる舗道』はナナ(アンナ・カリーナ)という舞台女優志望の女の子が夫も子供も投げ打って女優を目指すものの、娼婦へと転落してしまう物語。エミール・ゾラの『ナナ』の物語を反転させた、皮肉めいた話である。そのゾラへの言及や、冒頭で引用されるモンテーニュ、後半に登場するポーの小説(ボードレール訳)、直接的に引用されるカール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』など、ゴダールお得意の文学・哲学的引用が多数埋め込まれている(そういえば、カール・ドライヤーの映画は『吸血鬼』しか観たことがない)。

 映画のコードを打ち破るような斬新なカメラワーク(例えば、映画の始め、ナナは元夫と会話しているのだが、カメラはナナの後頭部しか映さない)、ワンシーン・ワンカットが続くモンタージュの少ない構成など、技法的に気になる点が非常に多い。この映画において、カメラの移動は極力抑えられている。一方でジュークボックスから流れる音楽に合わせてナナが踊る場面などでカメラは自由に動く。その静と動の対比が鮮やかである。また、鏡越しに役者を写すなどの技法もわざとらしいくらいに多い。


 映画の冒頭、次のような言葉が引かれる。
「他人に自分を貸すこと。ただし自分を与えるのは自分にだけ限ること」
このモンテーニュの警句は、映画を最後まで観ると意味を持ってくる。ナナは役者として自分を他人に「貸す」のではなく、売春婦となることで自分を他人に「与え」てしまった。魂を売ってしまったのだ。そこにこそナナの悲劇の原因がある。だから、この映画の原題、Vivre sa vie(自分の人生を生きる)というのも映画を全て見終えて初めて有意味となる。ナナは自分の人生を生きただろうか? もちろん答えは否である。邦題の『女と男のいる舗道』は美しいタイトルではあるけれども、そういう意味では最悪だと思う。ストレートに『自分の人生を生きる』とした方が効果的ではある。

 後半、アンナ・カリーナとゴダールの哲学における師ブリス・パランが哲学的な問答をするシーンが登場する。このシーン、脚本はなく、即興的な対話をカメラに収めたものであるらしい。この対話が非常に素晴らしいのだ。少し引用してみよう。
「でも、なぜ話をするの? 何も言わずに生きるべきだわ。話しても無意味だわ」
「本当にそうかね?」
「わからない」
「 人は話さないで生きられるだろうか」
「そうできたらいいのに」
「いいだろうね。そうできたらね。言葉は愛と同じだ。それ無しには生きられない」
「なぜ? 言葉は意味を伝えるものなのに。人間を裏切るから?」
「人間も言葉を裏切る。書くようには話せないから。だがプラトンの言葉も私たちは理解できる。それだけでもすばらしいことだ。2500年前にギリシャ語で書かれたのに。誰もその時代の言葉は正確には知らない。でも何かが通じ合う。表現は大事なことだ。必要なのだ」
「なぜ表現するの? 理解し合うため?」
「考えるためさ。考えるために話をする。それしかない。言葉で考えを伝えるのが人間だ」
「難しいことなのね。人生はもっと簡単なはずよ。『三銃士』の話はとても美しいけど、恐ろしい」
「恐ろしいが意味がある。つまり…人生をあきらめた方がうまく話せるのだ。人生の代償…」
「命がけなのね」
「話すことはもう一つの人生だ。別の生き方だ。わかるかね。話すことは、話さずにいる人生の死を意味する。うまく説明できたかな。話すためには一種の苦行が必要なんだ。人生を利害なしに生きること」
「でも毎日の生活には無理よ。つまりその…」
「利害なしに。だから人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。日常生活から別の人生への飛翔。思考の人生。高度の人生というか。日常的な無意識の人生を抹殺することだ」
「考えることと話すことは同じ?」
「そうだと思う。プラトンも言っている。昔からの考えだ。しかし思考と言葉を区別することはできない。意識を分析しても思考の瞬間を言葉でとらえられるだけだ」
ここでパランが言うように、常に言葉は人間を裏切るけれども、他方で「人間も言葉を裏切る」のだ。私たちは、考えや心情をそっくりそのまま言葉へとトレースすることはできない。これは非常に悲劇的なことだ。だけれども、私たちは話さねばならない。そのために「仕方なく」「ありものの」言葉で「間に合わせる」。考えや心情にぴったりと合わないけれども、「一時しのぎ」の言葉で「代用」する。時に沈黙にほだされながら…。それは何と言葉に対して不誠実な態度だろうか。だから、言葉が人間を裏切った分だけ人間も言葉を裏切るのだ。人間と言葉は許嫁のようなものだ、と思う。ある契約関係で結ばれ、関係を解くことはできない。人間は言葉を抱いて生まれ、言葉とともに死んでいくのである。

 これは、リオタールが『文の抗争』で問題としたこととつながってくる、と思う。リオタールは「抗争」という言葉で、争いの当事者どうしの議論に同じ判断規則や文法規則が適用できない状況を指している。そして、「不当な被害」という言葉でもって、規則が存在しないために償うことのできない、さらにはその被害の存在を立証することもできない被害のことを指している。不当な被害の「犠牲者」は、それについて「語ることも語らないこともできる」という能力すら喪失している。「語らないでいることができる」ことと「語ることができない」ことは厳格に区別されるのである。リオタールにとって、沈黙は一つの言葉でありうるからだ。この抗争と不当な被害を巡る議論はダイレクトにホロコーストの問題へと接続される。
 ところで、リオタールは文ないし言語に絶対の信を置くが、そもそも人と言葉との関係も抗争の状態にあるように思える。人と言葉は、常に=既に相互に裏切り合う運命にある。この恐ろしい共依存関係において生じた不当な被害を法廷に持ち込むことは不可能である。だからこそ「人生をあきらめた方がうまく話せる」に違いない。パランの言う通り、饒舌の代償は人生への諦念である。しかしこの抗争と不当な被害という言語化不可能な、存在の立証が不可能な何か――これを人生においてどう扱うかであらゆるものに対するアティチュードは変化していくだろう。それこそ人生そのものが転回していくような変化が訪れるはずだ。

愛なき不完全な備忘録 Nov 4, 2012―ブルースはどうやってみつける?

Oct 27
Nag Ar Juna × mitsume × JAPPERS / 3 BANDS JOINT RELEASE PARTY(Nag Ar Juna, ミツメ, JAPPERS, SUPER VHS @幡ヶ谷forestlimit)


 ミツメのライブを観てみたかったので行ってみた。予約は定数に達していたので、当日券を頼みに早めに幡ヶ谷へ向かった。forestlimitへ来るのは一年ぶりくらいだ(ホライズン山下宅配便のワンマン以来)。高速で行き交う車と排ガスに彩られた、まるでディストピアを現実化したかのような甲州街道沿いを左に折れると、飲み屋に紛れてforestlimitはある。オープンすると、あの狭いforestlimitは瞬く間に超満員となった。スカートの澤部渡さんがいたので「ファンです」と声をかけてみた。すると側にいた女の子も「私もです」と言った。澤部さんは最早インディ・ロック・スターである。
 ミツメ以外の他の三バンドは全く知らなかった。SUPER VHSはちょっとチルウェイヴっぽい気怠さを漂わせた今風エレポップ。JAPPERSはザ・ラーズのようなブリティッシュ・ロックやポップスの影響を隠そうとしないバンドだった。二組とも英語で歌っていたので、日本語で歌えばいいのに、と思った。

 ミツメのライブは始めドラムがもたっており、あの少し不安定な(しかしそれが魅力でもある)ボーカルとも相まって「大丈夫かな?」と心配になった。とは言え、傑作『eye』で完成された音をそのままライブで表現しており、演奏の完成度と密度は非常に高いと思った。1stからの曲はなく、全曲『eye』からだった。私としては、レコードとほとんど違わぬ演奏にライブバンドとして魅力を感じるかと言えば少し疑問だ。ただ、淡々と進んでいく演奏に仄かな熱情は確かに感じられたし、スリリングに絡み合う二本のギターのプレイにはワクワクした。
 疲れてしまったので、Nag Ar Junaの演奏の途中で帰ってしまった。外には澤部さんが立っていた。




 ミツメの『eye』は本当に傑作だと思う。シンプルなギターポップであった1stから一気に飛躍し、別次元の独自のサイケデリック・ロックを打ち立てている。「Disco」は1stの曲たちに近く、いわゆるネオアコ風ではある。が、ダブを独自に解釈しサイケデリックへと接続させた素晴らしい「春の日」をアルバムの一曲目へ持ってきたことは、ミツメの変化を宣言するためだろう。
 アルバム発売に先駆けて公開されていた「cider cider」は紛れも無い名曲だ。これを初めてsoundcloudで聴いたときは非常に驚いた。即かず離れず絡み合う二本のギターのミニマルなフレーズのダイナミックさ、キュートでスペイシーな音で鳴るシンセサイザー…ニュー・ウェイヴィだが今っぽさもひしひしと感じる。一瞬で虜になった。



 「fly me to the mars」のカセット(後に7インチ・シングル)に収録されていた「煙突」は別ヴァージョンになっている。『eye』についてはまた詳しくレビューしてみたい。


Oct 30
アルファヴィル(ジャン=リュック・ゴダール 1965)


 私の頭が悪いのかググって解説を読まなければ作品内の設定が理解できなかった。映像・編集はゴダール節全開。

Nov 3
武蔵大学 白雉祭(倉内太、キウイとパパイヤ、マンゴーズ、KETTLES、T.V.not january、ザ・なつやすみバンド、スカート、画家、俺はこんなもんじゃない、片想い、ズボンズ @武蔵大学江古田キャンパス)


 武蔵大学のライブイベント。上記の通り豪華な面子で、しかもフリーライブ。同じ江古田のプチロックとはライバルか? 今日もプチロックは開催されているが、行っていない。今年は一日も行かなかった。なんとなく。
 快晴だった。江古田駅を挟んで日芸とは反対側にある武蔵大学。大学の校舎は非常に綺麗で近代的だが、学園祭自体は人が少なく、大学生たちはなんともチャラい感じの者が多かった。それは少し悲しい感じを私に与えるものではあった。ライブ・ステージは地下のスタジオと野外のステージに分かれていた。この日観たのは、倉内太、キウイとパパイヤ、マンゴーズ、ザ・なつやすみバンド、スカート、片想い。俺はこんなもんじゃないは『2』を愛聴していたし、ライブを観たことがなかったので観たかったが、泣く泣く片想いを取った。画家も久しぶりに観たかったが、観なかった。

 一番手、地下のスタジオで倉内太さんを観た。三鷹おんがくのじかんで観た時と同じように黒いロングTシャツを破り、同じようにポエムを詠んだ。青春期の焦燥と恋愛にまつわるモヤモヤを激情にまかせてシャウトしながらも、フォーキーでブルージーでロックンロールなギタープレイは非常に丁寧。伴瀬朝彦さんや三輪二郎さん、牧野琢磨さんとのギターバトルが観てみたい。表現者としての芯が非常に強いというか、とにかく「人間力」のある人だ。言いすぎかもしれないが、まるで遠藤賢司みたいだ。変わった人である。トリックスターのよう。時にユーモラスに、時に激しく歌う。
 「ブルースがみつからない」という曲が最高だ。今はこの動画よりもずっと洗練された演奏をする。


 それから外のステージでキウイとパパイヤ、マンゴーズの素晴らしい演奏に酔いしれた。晴れ渡った空のもと、野外で聴くには最高だった。ボーカルの方の民謡風の節回しやレゲエのビートを重たく刻むドラムの素晴らしさに感動した。またライブへ行ってみたい。物販で「東京の演奏」を主催し、とんちれこーどを手伝っているこっちゃんに久しぶりに会った。以前より元気ハツラツとしていたので良かった。ceroの柳さんの絵があしらわれた片想いのTシャツを買った。

 野外ステージのトリは片想い。六月のoono yuukiとの対バン以来に観た。サックスの遠藤里美さんがおらず、NRQの牧野琢磨さんがギターで参加していた。
 演奏が始まって驚いたのは、演奏が非常にタイトで引き締まっていることだった。もともとキメるところはしっかりとキメるタイトさはあったものの、そこにルーズな感覚が紛れ込んでいた。以前までの片想いはちょっとスカスカで、ちょっと演奏にズレがあって、悪い言い方をすればちょっぴり下手で、それがなんともキュートでユーモラスで楽しい気持ちにさせてくれるものだった。だが、この日の片想いは恐ろしいほどタイトなファンク・バンドだった。
 「やったことのない曲を練習してきたので、それをやります」と片岡シンさんが言ったので、「新曲!?」とワクワクしてて始まったのはなんとスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「ランニン・アウェイ」。驚いた。そしてこの時の素晴らしい演奏が決定的に片想いの演奏の変化を物語っていたと思う。オラリーさんの歌は堂々たるものだったし、あだちさんのドラムと伴瀬さんのベースが打ち出すビートは骨太で身体の芯にまで響いた。本当に感動した。完全に片想いの曲だった。
 とにかくこの日の片想いはすごかった。夕闇の中、どこからともなくものすごく多くの観客がステージの周りに集まりだし、歓声をあげ、笑い、踊り、手拍子していた。違うバンドかと思うほどファンキーで格好いい片想いを聴きながら。いつも通りのちょっとグダグダしたMCとも寸劇ともつかないものを挟みながら(この日はイッシーさんが全然喋らなかったけれど)、たくさんの聴衆を、たぶん片想いを知らない人たちも含めて虜にしていた。本当、モンスターバンド。
 曲は何をやったのかすっかり忘れてしまった。たしか、「東京フェアウェル」「カラマルユニオン」「踊れ! 洗濯機」「山の方から来てくれればいいのに」をやっていたと思う。もちろん「踊る理由」もやった(僕の好きな「V.I.P」や「管によせて」「すべてを」はやらなかった)。
 そういえば、「カラマルユニオン」という曲名はアキ・カウリスマキの「カラマリ・ユニオン」にちなんでいるんだろうな。良い曲。