2012年4月28日土曜日

アキ・カウリスマキ監督『過去のない男』(2002)


アキ・カウリスマキ監督の新作、『ル・アーヴルの靴みがき』が、早いところでは本日から公開された。それを記念してユーロスペースで行われていた、「おかえり! カウリスマキ」(何とも愛らしいタイトル)というカウリスマキの全作品の特集上映があったのだが、結局、足を運ぶことができなかった。

そのように再注目を浴びているアキ・カウリスマキの『過去のない男』を観た。まとまりなく、思いついたことを書いてみよう。

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さて。映画の美はどこに宿るのかと問われれば、私はやはり映像であると思う。画面の美しさ、映像としての美しさ、それを言語化することはとても難しい。多分に主観的で、言ってしまえば好みのようなものだ。それでもやはり、画面を見つめた時点で、映像の美醜は私の中で峻別される。映像に鋭敏な人間が作っているか否か、はすぐにわかってしまう。いくら物語内容が面白く、気を引くものであったとしても、それを語る言語たる映像が美しくなければ、どうでもよくなってしまう。
アキ・カウリスマキ監督のこの『過去のない男』は、そういう意味でとても美しい映画であった。現実を映像としてフィルムに焼き付けるその工程に、きっちりと美しさが刻まれた作品だった。コントラストが高く、輪郭線のはっきりした映像に引き込まれてしまった。

この映画には若者は殆ど出てこない。主要な登場人物はみな貧しい中年かそれ以上の男女である。だから、彼らの身体には厳しさを湛えた疲弊や年輪が刻み込まれている。皺や皮膚のたるみ、張りがなくなった荒い肌理、脂ぎった顔、白髪の混じった髪。そういったものが容赦なく映像として提示される。でも、彼らはなぜか美しいのだ。「味」とはまた違う、別種の美しさがあるのだ。それは、若さを絶対的な美として崇める者には絶対に作りえない映像美である。

だからこそ、映画の初頭で吐かれる、「人生は前にしか進まない。後ろに進んだら大変だ」という、この肯定的な励ましとも、諦めともとれる科白がこの映画のハイライトなのだ。いくら手元に留めておこうと試みても、それに必ず抗って暴力的に進行する「時間」という、この絶対的な支配者との付き合い方を言葉少なに綴る――『過去のない男』はそういう映画である。

「乾いたペーソスとユーモア」なんていう、手垢まみれにすぎて最早何の意味もなさない表現を使いたくはないのだが、『過去のない男』は「乾いたペーソスとユーモア」を湛えながら淡々と進行していく。とても愛らしく、貧しい中年たちが淡々と生きていく。そこには時々酒があり、ご馳走があり、粋な語らいがあり、煙草がある。まるでドラマティックではないが、それこそがドラマなのだと言わんばかりだ。

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最後に。常に音楽が流れている。それがまた、とても心地良いのだ。ブルースやロックンロールやクラシックがこの映画のサウンドトラックを満たしている。カウリスマキ・ファンであるクレイジーケンバンドの楽曲も登場し、驚いた。

主人公の過去がないこと=名前がないことや、路上生活についても触れたかったが、今回はこんな感傷的な感想で終えておこう。


2012年4月25日水曜日

太田いくえ『照応』

太田いくえ『3寄の往還』全体(映像を映像として)
©Ikue Ohta

武蔵野美術大学の優秀作品展を観に行ってきた。というのも、以前、大学の同じサークルに属していた太田いくえさんの作品『照応』が展示されているからだった。Facebookのページにアップされた、その『照応』、あるいは『3寄の往還』の写真や動画にただならぬ魅力を感じ、これは是非観てみたいと思ったのだった。

そして、実際に『照応』に相対してみると、そのえも言われぬ圧倒的な佇まいに、私はすっかり打ちのめされてしまった。それは、他の学生による優秀作品とは全く違うレヴェルにあるような強度と自律性とを持ち合わせていた。『照応』には、優れた芸術作品が必ず持っているような、こちらの前提や事前了解、常識といったものを突き崩す、不安定な感覚へのいざないがはっきりと刻まれていた。日々反復する生活を一瞬で崩壊させるような、ラカンで言えば現実界、あるいはカント的な物自体へのいざない。

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イントロダクションを少々。『照応』は少し複雑に入り組んだ、コンセプチュアルな作品である。まず、彫刻作品『定着まで』と映像作品『定着より』とが、『3寄の往還』を成し、そして、その『3寄の往還』と『果てることなく漂え』という文章作品とが『照応』を成す(会場では、私は自らの注意不足のために、ハガキとして展示されていた『果てることなく漂え』を見落としてしまっていた)。

彼女自身による『照応』の紹介も引用してみよう。

彫刻だけで成り立ち、映像だけでも成立する。文章は予め作られていた。
扱う次元の異なる表現を符合させることで、手法を越えた状態が生まれる。

彫刻・映像を合わせた作品であるためか、無機と有機の間を止め処なくたゆたう。
理性的な作品に感情的な文章が当てられることで、振り切れない存在が新たに揺らぐ。

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太田いくえ『3寄の往還』全体(映像を照明として)
©Ikue Ohta

さて。『3寄の往還』の前に立ち、そこに映像が照射されたとき、彫刻のくっきりとした像が突如立ち現れ、ちょっと恐ろしい感覚に襲われた。心拍数が上がった。そこに彫り刻まれたものは、ゴツゴツとした無骨な隆起や襞や溝、そしてザラついた物質の表面であり、それが鈍重でメタリックな色を帯びる。その照り輝きは、まるで暗室に浮かび上がる古ぼけたイコンのような神聖さでもありながら、サイバーパンクやスチームパンクの映画作品が持つひんやりと薄汚れた質感でもあった。

映像が動き出すと、更に不思議な様相を呈する。様々な大きさや形をした矩形群が、『定着まで』という奇妙なキャンバスの上で、機械と生物との中間をゆくような動きを見せる。移動し、顫動し、蠢動し、淀み、軋む…。そして明滅する光や、それら移動する矩形が、彫刻の隆起や襞を切り取り、歪ませる。

固定された彫刻『定着まで』の質料因=素材がかたくなに守る沈黙に、映像『定着より』は揺さぶりをかける。数分経ったところで映像が止み、再び『定着まで』はエントロピーの法則を無視したような確固たる永遠性を獲得したかと思えば、追い打ちをかけるように『定着より』が再度襲いかかり、『定着まで』を怪しく舐め回す。まさに作家本人が語る通り、『3寄の往還』は「無機・有機」という二分法に挑み、その区分けを揺るがすような作品である。

また、この作品から立ち上がる、ある種リビドーのような泥臭さ、汗臭さ、汚らしさ、異形性に畏れを感じた。もし、照射される映像がいつまで経っても止まなければ、永久に作品の前に磔にされて、一歩も動けなくなってしまうだろう…。そのように思わせる、畏怖の感覚を覚えた。それはまるで、杉本博司の孤高な完全性と、アルベルト・ブッリの低俗唯物性が同居しているような…。

一方で、『照応』を成すもう一つの作品、『果てることなく漂え』というテクストは、記憶・記録と現実との非対称性への不満足についてのものだ。実際にあるものと、ありうべきものとの埋められない溝に気づき、欲望が空焚きされる、あの感情だ。その、記憶・記録の不確かさ、不安定さが明示されることで、『照応』を観る者は、記憶・記録と現実との「照応不可能性」に打ちひしがれるのだ、と思う。

太田いくえ『果てることなく漂え』
©Ikue Ohta

言うまでもなく、大抵の芸術作品とは、恒久的に、反復的に、静かにそこにあり続けるものである。私と作品との一回的・個的な出会いは、(一回性が有する尊さを感じさせながらも)反復されることなく、永久に失われてしまうにも関わらず、である。『照応』という作品もその例に漏れない。しかし、記憶・記録の不完全性という何人たりとも避け得ない事実の提示、すなわち「反復の否定」を永久に反復し続ける逆説的な作品であることが、『照応』を特異な作品にしているように私には思える。

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「スタイリッシュ」で適度に「良い感じ」の無菌的・除菌的なモノが横溢し、幅を利かせる世界において、それにおもねるか、または極端な汚物へと反動的に向かってきた所謂「現代アート」の動向に距離を置いて、傍から眺めているかのような冷淡さと厳しさが『照応』にはある。『照応』は、芸術が有する特権的な超越性と、俗物的な地の底の卑俗性との、そのどちらに転がることもなく、ただひたすら「たゆたい」、「往還」する。

しかし、まだ「3寄」という言葉に対する解を私は得られていない。『定着まで』と『定着より』が成す『3寄の往還』。「3」とは? 「寄」とは? そのヒントは『3寄の往還』の英題Far from 3 But Close to 3にあるのかもしれない。

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太田いくえ http://www.ohtaikue.com/
平成23年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展 http://www.musabi.ac.jp/exhibit/2012_yushu/index.html

2012年4月24日火曜日

曽我部恵一BAND『曽我部恵一BAND』


曽我部恵一BANDの3rdアルバム、『曽我部恵一BAND』については、まず「街の冬」について語りたいと思う。

友人が、「街の冬」は高田渡みたいだ、と言った。生活保護の申請を断られ続ける、貧しい姉妹の歌だからだ。

これは今年、札幌であった実際の事件を下敷きにしているようだ。知的障害のある妹を世話していた姉が急病死した後、妹が自力で生活できずに凍死してしまった、という痛ましい事件だ。姉は生活保護の申請をしていたが、受け付けられていなかった(社会学者たちが「共同体の紐帯の崩壊」の実例として、嬉々として取り上げそうで、それがなんだかイヤである。私は、その「共同体の紐帯」が切れてしまった社会において、社会のセーフティ・ネットが全く働いていないことが問題であって、感情論やバッシングではなく、この現実を前提としたセーフティ・ネットの具体的な構築方法が肝要な議論の的となってほしい、と思うのだが…)。

この「街の冬」は、高田渡のようなある種の諦念と、貧困への慣れからくる倦怠感や暖かさとは違い、より厳しいものである(もちろん、高田渡がそればかりを歌ってきた生ぬるい歌手だったと言いたいわけではない)。「街の冬」で歌われる暖かさは、彼女たちの死から逆照射された周囲の人間の希望であり絶望(「とっても仲の良い姉妹です」「それを見ていると こっちまで楽しくなってきます」)、そして、彼女たち自身の死と表裏一体となった希望=絶望(「天使がやってきて ドアを叩きます」)である。恐ろしいほど悲しい歌であると、私は思う。

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話は遡る。前作『ハピネス!』には失望した。悪いアルバムじゃない。けど、聴き手の了解の領域内で鳴っている音楽だと思った。「ライブで聴いたらさぞかし楽しかろう。そしてライブハウスを出た瞬間に体は冷えきって、次の日にはライブの内容を忘れてしまうだろう。ロックンロールのシンプリズムをひたすら突き詰めていけばいい。ラモーンズにでもなってくれ」。鳴っている音に必然性が感じられなかった。魔法を詰め込んだバンドワゴンは、もう自己満足でピカピカに磨き上げられたこだわりのクラシックカーになってしまった。そう思ったのだ。

さて、去年、たまたまサニーデイ・サービスのライブを観ることがあった。サニーデイが再結成したとき、「なんでもかんでも再結成しやがって。つまらんに決まってる」などと失礼千万なことを思って、高をくくって放っておいた。だから、ライブも全く期待していなかった。ところが、曽我部さんが歌い始めると、圧倒される他なかった。「若者たち」や「白い恋人」が激しく演奏される。荒々しいギターサウンドと昂りきったボーカルとが、あのサニーデイ特有のクールでどこか拙いグルーヴを汗臭く沸騰させていた。まるでニール・ヤングとクレイジー・ホースだった。わけのわからない説得力があった。畏怖さえ感じさせる曽我部さんのたたずまいに、えも言えぬ感動とショックを受けた。

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そんないきさつがありつつ、曽我部恵一BANDの3rdアルバムを聴きたくなったのは、直接的には、その作品の周りに言葉が巻き起こっていたからだ。ele-kingの記事を読んで、「これは聴かなきゃダメだな」と思った。

作品が世に問われたときに、必ず言葉が砂塵のように巻き上げられる。必ず言葉がつきまとう。だけれど、販売促進の宣伝文=広告や、直情的な感想(例えば140字で済ませられるような)しか引き起こせない作品が大抵である。それらは作品を騙った、作品でないものだ。一方で、その言葉という砂嵐の中で、目につくような光を放つ批評的言説を巻き起こす作品がある――『曽我部恵一BAND』はそんなアルバムだ。

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3枚目にして、曽我部恵一BANDは大きく舵を切ったようであり…やっぱりこれまでの(曽我部恵一としてのソロ・キャリアを全て含めた)延長線上にあるようにも聴こえる。わからない。アルバムの収録時間はこれまでの2倍、70分近くになった。シンプルなロックンロールだけじゃなく、様々な要素が注ぎ込まれた。その要素は、インディペンデントへとシフトした曽我部さんが、これまで体当たりでぶつかってきた様々な若手ミュージシャンたちからの影響も伺えるものだ。

例えば、「ソング・フォー・シェルター」はラップとポエトリー・リーディングの境界線を歩むような歌だ。「魔法のバスに乗って」が「J-HIP HOP」へのカウンターであったり、「サマー・シンフォニー」でPSGとのコラボレーションを試みてきた(ヒップホップとの関わりを他にもたくさん持ち、常にヒップホップを注視しているだろう)曽我部さんにとって、ラップというのは重要なファクターのはずだ。
でも、私にはどうしてもディランに聴こえてしまうのだ。タイトルは「嵐からの隠れ場所 (Shelter from the Storm)」を思わせる。さて、甚大な放射能公害を経験してしまった私たちにとって、この曲の「シェルター」という言葉の意味はただの「隠れ家」とは思えない。だから、「坊や、そっちはどうだい?/どんな感じだい?」という「青春狂走曲」とはまた違った意味を帯びた問いかけに、私たちはどう答えていいのか窮してしまう。つい、うなだれてしまう。私たちは「うまくやっている」だろうか?

アルバムの中でとりわけ光っているのはやはり、tofubeatsによるリミックスが先行シングルとして出された「ロックンロール」だ。シンプルなロックンロールを奏でてきた曽我部恵一BANDが、ちょっと荒削りなシンセサイザーの音が鳴り、ハウス・ミュージックの四つ打ちビートが支配するこの曲に「ロックンロール」という曲を名付けてしまう、その乱暴なまでに転倒を試みるアティチュードに舌を巻く。ロックンロールは昔、ダンス・ミュージックだったのだ。みんな、ロックンロールで踊っていた。そんな半生記ぐらい前のことへ思いを馳せさせる曲だ。頭に浮かぶイメージをそのまま言語へトレースしたような、何を言っているのかわからない歌も、やはりロックンロールならではなのだ。


こんなことを言ったら見当違いだと怒られてしまうだろうが、「満員電車は走る」はすごく前野健太っぽい。語るような、字余りの歌い方や、ある種「私小説的」な歌詞(この言い方はあまり好きではないし、正しくもないが)。「アイデンティティを持つこと」がむやみやたらと求められ、「私はこういう人間です」と自ら説明せねばならない必要性に駆られる現今。バイトの面接を受ける女の子は「ねえ、面接官さん教えて/私が誰だか教えてよ」と問いかける。


他にも切々たる歌唱が感動的なカントリー・ソング「兵士の歌」、スタジオでテープレコーダーを使って録音したような荒々しい「胸いっぱいの愛」、幻想的でダビーなレイドバック・ソング「サーカス」、ノイ!っぽいミニマルな「ポエジー」等々、傑作が並んでおり、書ききれない。

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…などと、批評的言説とは程遠い、直情的でまとまりのない感想を書いてきた。でも、私は上の文章で「感想文が悪い」などと言いたいわけではなかった。作品に対して自分の言葉でもって、やんややんやと言葉を投げかけることはとても意味あることだし、そんな言葉が無くてはまったくもって面白くない。

この『曽我部恵一BAND』というアルバムは、果てしのない強度と必然性と、何より恐ろしいほど具体的で、現実的で、問題含みで、聴き手の想像力を問うてくる言葉と音が詰まっている。一方で悲しみが蔓延している。一方で生きる喜びが刻まれている。もう一方では、空虚さが場を占めている。複雑に入れ替わり立ち代わり現れる感情の機微のテクスタイルこそが人生であり、生活である。この作品はそれを写しとっている。

2012年4月23日月曜日

パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』(1987)


観た映画のことも、少し書いていこうと思う(基本的にはネタバレ)。

パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』を観た。なんとなく、観る機会を逸していた作品の一つだが、TSUTAYAがこれのDVDを大量に入荷していてやたらめったら推していたので、そのマーケティングに乗せられて借りてきたのだ。

非常に面白く、観客を飽きさせない展開で、ジャスミンがバグダッド・カフェの「住民」たちと打ち解けていく様や、感動するといえばする。また、冒頭の涙を流すブレンダとジャスミンが出会う場面は名シーンとしかいいようがない。そのハートウォーミングな物語内容や、市井の人々を巧く描いた脚本や演出が当作を名画たらしめている所以の一つでもあるのだろう。

しかし、ストーリー的な詰めの甘さがかなり歯がゆい(これは最早悪口ではあるが、ジャームッシュとヴェンダースの映画を足した感じが拭えない。皮肉なことに、Amazonで「バグダッド・カフェ」を検索すると、『パリ、テキサス』も引っかかってくるのだ(笑))。それは、わざとやっているようにも思える。終盤、「家族同然」の妙な色気を持った彫り師デビーがバグダッド・カフェを去ろうとするシーン、あるいはルーディ(ジャック・パランスの名演! というかこの映画の役者たちは本当に素晴らしい)がジャスミンへ求婚するラストシーン、あるいはジャスミンの夫の行方などにそれが顕著で、何かしらバグダッド・カフェという共同体の崩壊を暗示しているとも思える。何というか、後半は不穏な空気が出ているのだ。まるで、バグダッド・カフェの幸福な時間は、ジャスミンのビザが期限切れとなった時点で終わってしまっているかのような。そう考えると、その後の展開(ジャスミンとブレンダの再会など)は虚しささえ感じられる。その虚しさとは、懐旧のあの甘い感覚を伴っている。だから、バックパッカーが中空へ放り投げられたブーメランは手元へ回帰せず、貯水タンクにぶつかって落下してしまうのだ。楽しく慣れ親しんだその反復的生活の終わりを巧く象徴しているシーンだ。

映像的には柔らかく、そして少しサイケデリックな光の使い方、ザラついてカラッとした映像感覚が全編を覆っており、非常に格好良い(なぜ、『バグダッド・カフェ』は夜のシーンを殆どと言っていいほど描かないのだろうか? それはやはり日光を、当作が描いているからだろう)。しかし、観客を置いてけぼりにする序盤のジャンプカット、ちょっとした早回し、その他映像的実験や、後半のミュージカルシーンはただやりたかっただけのようで、必然性が感じられない。いや、その必然性というものを感じさせないとっちらかった映像感覚、易々とメジャーな感覚に回収されないアマチュアリズムこそが『バグダッド・カフェ』の魅力なのかもしれないが。

さて、不思議なのはルーディの描いた二つの光が差す絵画である。果たして、あれは一体何なのだろうか? 興味の尽きない映画である。

あ、今作を語る際に外してはならない音楽について語るのを忘れてしまった。それはまた今度にしよう。


2012年4月21日土曜日

菊地成孔 feat. 岩澤瞳「普通の恋」


これは渋谷系を騙った、アンチ渋谷系ソングだ。
90年代は、バブルの残滓と渋谷系の多幸感に浮かれた時代であると同時に、一方で「失われた10年=ロスジェネ」でもあった(とされている)。前者には目もくれなかった人々はこうである。つまり、「ドストエフスキー」と「エヴァンゲリオン」に夢中で(ある意味、社会の命令によってそう「させられた」)、「退屈と絶望が日課」の「ハンパに高いIQがいつでもいつでも邪魔になって/革命ばかりを夢見るけれども/何も出来ない」、内宇宙に逃げ込んだ男たちと、「パパ」による性的暴力のトラウマと「チョコレート」の摂食障害に悩まされる女たち。
90年代、社会学者たちがこぞって分析したこうした「普通でない」人々=社会の共同幻想へ過剰適応させられた人々を、見事にポップソングとして切り取った手腕がまず素晴らしいと思う(言うまでもないことだが、popularという英単語は「大衆的」という意味だと指摘しておかねばならない)。しかし、社会学者にできなかったことを、このポップソングという名のフィクションでもって菊地は成し遂げている。つまり、社会に過剰適応させられた上、社会学者によってバラバラに解剖され、もはや細胞単位の標本と化してしまった上記の男女を出会わせたのだ。ボーイ・ミーツ・ガール、ガール・ミーツ・ボーイ。
だからこそ、「お洒落な場所じゃなかった」と語られるコンビニでのこの男女の出会いと、彼らの「普通の恋」は感動的であり、最上の「癒し」をもたらす。