2012年4月25日水曜日

太田いくえ『照応』

太田いくえ『3寄の往還』全体(映像を映像として)
©Ikue Ohta

武蔵野美術大学の優秀作品展を観に行ってきた。というのも、以前、大学の同じサークルに属していた太田いくえさんの作品『照応』が展示されているからだった。Facebookのページにアップされた、その『照応』、あるいは『3寄の往還』の写真や動画にただならぬ魅力を感じ、これは是非観てみたいと思ったのだった。

そして、実際に『照応』に相対してみると、そのえも言われぬ圧倒的な佇まいに、私はすっかり打ちのめされてしまった。それは、他の学生による優秀作品とは全く違うレヴェルにあるような強度と自律性とを持ち合わせていた。『照応』には、優れた芸術作品が必ず持っているような、こちらの前提や事前了解、常識といったものを突き崩す、不安定な感覚へのいざないがはっきりと刻まれていた。日々反復する生活を一瞬で崩壊させるような、ラカンで言えば現実界、あるいはカント的な物自体へのいざない。

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イントロダクションを少々。『照応』は少し複雑に入り組んだ、コンセプチュアルな作品である。まず、彫刻作品『定着まで』と映像作品『定着より』とが、『3寄の往還』を成し、そして、その『3寄の往還』と『果てることなく漂え』という文章作品とが『照応』を成す(会場では、私は自らの注意不足のために、ハガキとして展示されていた『果てることなく漂え』を見落としてしまっていた)。

彼女自身による『照応』の紹介も引用してみよう。

彫刻だけで成り立ち、映像だけでも成立する。文章は予め作られていた。
扱う次元の異なる表現を符合させることで、手法を越えた状態が生まれる。

彫刻・映像を合わせた作品であるためか、無機と有機の間を止め処なくたゆたう。
理性的な作品に感情的な文章が当てられることで、振り切れない存在が新たに揺らぐ。

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太田いくえ『3寄の往還』全体(映像を照明として)
©Ikue Ohta

さて。『3寄の往還』の前に立ち、そこに映像が照射されたとき、彫刻のくっきりとした像が突如立ち現れ、ちょっと恐ろしい感覚に襲われた。心拍数が上がった。そこに彫り刻まれたものは、ゴツゴツとした無骨な隆起や襞や溝、そしてザラついた物質の表面であり、それが鈍重でメタリックな色を帯びる。その照り輝きは、まるで暗室に浮かび上がる古ぼけたイコンのような神聖さでもありながら、サイバーパンクやスチームパンクの映画作品が持つひんやりと薄汚れた質感でもあった。

映像が動き出すと、更に不思議な様相を呈する。様々な大きさや形をした矩形群が、『定着まで』という奇妙なキャンバスの上で、機械と生物との中間をゆくような動きを見せる。移動し、顫動し、蠢動し、淀み、軋む…。そして明滅する光や、それら移動する矩形が、彫刻の隆起や襞を切り取り、歪ませる。

固定された彫刻『定着まで』の質料因=素材がかたくなに守る沈黙に、映像『定着より』は揺さぶりをかける。数分経ったところで映像が止み、再び『定着まで』はエントロピーの法則を無視したような確固たる永遠性を獲得したかと思えば、追い打ちをかけるように『定着より』が再度襲いかかり、『定着まで』を怪しく舐め回す。まさに作家本人が語る通り、『3寄の往還』は「無機・有機」という二分法に挑み、その区分けを揺るがすような作品である。

また、この作品から立ち上がる、ある種リビドーのような泥臭さ、汗臭さ、汚らしさ、異形性に畏れを感じた。もし、照射される映像がいつまで経っても止まなければ、永久に作品の前に磔にされて、一歩も動けなくなってしまうだろう…。そのように思わせる、畏怖の感覚を覚えた。それはまるで、杉本博司の孤高な完全性と、アルベルト・ブッリの低俗唯物性が同居しているような…。

一方で、『照応』を成すもう一つの作品、『果てることなく漂え』というテクストは、記憶・記録と現実との非対称性への不満足についてのものだ。実際にあるものと、ありうべきものとの埋められない溝に気づき、欲望が空焚きされる、あの感情だ。その、記憶・記録の不確かさ、不安定さが明示されることで、『照応』を観る者は、記憶・記録と現実との「照応不可能性」に打ちひしがれるのだ、と思う。

太田いくえ『果てることなく漂え』
©Ikue Ohta

言うまでもなく、大抵の芸術作品とは、恒久的に、反復的に、静かにそこにあり続けるものである。私と作品との一回的・個的な出会いは、(一回性が有する尊さを感じさせながらも)反復されることなく、永久に失われてしまうにも関わらず、である。『照応』という作品もその例に漏れない。しかし、記憶・記録の不完全性という何人たりとも避け得ない事実の提示、すなわち「反復の否定」を永久に反復し続ける逆説的な作品であることが、『照応』を特異な作品にしているように私には思える。

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「スタイリッシュ」で適度に「良い感じ」の無菌的・除菌的なモノが横溢し、幅を利かせる世界において、それにおもねるか、または極端な汚物へと反動的に向かってきた所謂「現代アート」の動向に距離を置いて、傍から眺めているかのような冷淡さと厳しさが『照応』にはある。『照応』は、芸術が有する特権的な超越性と、俗物的な地の底の卑俗性との、そのどちらに転がることもなく、ただひたすら「たゆたい」、「往還」する。

しかし、まだ「3寄」という言葉に対する解を私は得られていない。『定着まで』と『定着より』が成す『3寄の往還』。「3」とは? 「寄」とは? そのヒントは『3寄の往還』の英題Far from 3 But Close to 3にあるのかもしれない。

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太田いくえ http://www.ohtaikue.com/
平成23年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作 大学院修了制作 優秀作品展 http://www.musabi.ac.jp/exhibit/2012_yushu/index.html

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