2012年4月24日火曜日

曽我部恵一BAND『曽我部恵一BAND』


曽我部恵一BANDの3rdアルバム、『曽我部恵一BAND』については、まず「街の冬」について語りたいと思う。

友人が、「街の冬」は高田渡みたいだ、と言った。生活保護の申請を断られ続ける、貧しい姉妹の歌だからだ。

これは今年、札幌であった実際の事件を下敷きにしているようだ。知的障害のある妹を世話していた姉が急病死した後、妹が自力で生活できずに凍死してしまった、という痛ましい事件だ。姉は生活保護の申請をしていたが、受け付けられていなかった(社会学者たちが「共同体の紐帯の崩壊」の実例として、嬉々として取り上げそうで、それがなんだかイヤである。私は、その「共同体の紐帯」が切れてしまった社会において、社会のセーフティ・ネットが全く働いていないことが問題であって、感情論やバッシングではなく、この現実を前提としたセーフティ・ネットの具体的な構築方法が肝要な議論の的となってほしい、と思うのだが…)。

この「街の冬」は、高田渡のようなある種の諦念と、貧困への慣れからくる倦怠感や暖かさとは違い、より厳しいものである(もちろん、高田渡がそればかりを歌ってきた生ぬるい歌手だったと言いたいわけではない)。「街の冬」で歌われる暖かさは、彼女たちの死から逆照射された周囲の人間の希望であり絶望(「とっても仲の良い姉妹です」「それを見ていると こっちまで楽しくなってきます」)、そして、彼女たち自身の死と表裏一体となった希望=絶望(「天使がやってきて ドアを叩きます」)である。恐ろしいほど悲しい歌であると、私は思う。

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話は遡る。前作『ハピネス!』には失望した。悪いアルバムじゃない。けど、聴き手の了解の領域内で鳴っている音楽だと思った。「ライブで聴いたらさぞかし楽しかろう。そしてライブハウスを出た瞬間に体は冷えきって、次の日にはライブの内容を忘れてしまうだろう。ロックンロールのシンプリズムをひたすら突き詰めていけばいい。ラモーンズにでもなってくれ」。鳴っている音に必然性が感じられなかった。魔法を詰め込んだバンドワゴンは、もう自己満足でピカピカに磨き上げられたこだわりのクラシックカーになってしまった。そう思ったのだ。

さて、去年、たまたまサニーデイ・サービスのライブを観ることがあった。サニーデイが再結成したとき、「なんでもかんでも再結成しやがって。つまらんに決まってる」などと失礼千万なことを思って、高をくくって放っておいた。だから、ライブも全く期待していなかった。ところが、曽我部さんが歌い始めると、圧倒される他なかった。「若者たち」や「白い恋人」が激しく演奏される。荒々しいギターサウンドと昂りきったボーカルとが、あのサニーデイ特有のクールでどこか拙いグルーヴを汗臭く沸騰させていた。まるでニール・ヤングとクレイジー・ホースだった。わけのわからない説得力があった。畏怖さえ感じさせる曽我部さんのたたずまいに、えも言えぬ感動とショックを受けた。

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そんないきさつがありつつ、曽我部恵一BANDの3rdアルバムを聴きたくなったのは、直接的には、その作品の周りに言葉が巻き起こっていたからだ。ele-kingの記事を読んで、「これは聴かなきゃダメだな」と思った。

作品が世に問われたときに、必ず言葉が砂塵のように巻き上げられる。必ず言葉がつきまとう。だけれど、販売促進の宣伝文=広告や、直情的な感想(例えば140字で済ませられるような)しか引き起こせない作品が大抵である。それらは作品を騙った、作品でないものだ。一方で、その言葉という砂嵐の中で、目につくような光を放つ批評的言説を巻き起こす作品がある――『曽我部恵一BAND』はそんなアルバムだ。

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3枚目にして、曽我部恵一BANDは大きく舵を切ったようであり…やっぱりこれまでの(曽我部恵一としてのソロ・キャリアを全て含めた)延長線上にあるようにも聴こえる。わからない。アルバムの収録時間はこれまでの2倍、70分近くになった。シンプルなロックンロールだけじゃなく、様々な要素が注ぎ込まれた。その要素は、インディペンデントへとシフトした曽我部さんが、これまで体当たりでぶつかってきた様々な若手ミュージシャンたちからの影響も伺えるものだ。

例えば、「ソング・フォー・シェルター」はラップとポエトリー・リーディングの境界線を歩むような歌だ。「魔法のバスに乗って」が「J-HIP HOP」へのカウンターであったり、「サマー・シンフォニー」でPSGとのコラボレーションを試みてきた(ヒップホップとの関わりを他にもたくさん持ち、常にヒップホップを注視しているだろう)曽我部さんにとって、ラップというのは重要なファクターのはずだ。
でも、私にはどうしてもディランに聴こえてしまうのだ。タイトルは「嵐からの隠れ場所 (Shelter from the Storm)」を思わせる。さて、甚大な放射能公害を経験してしまった私たちにとって、この曲の「シェルター」という言葉の意味はただの「隠れ家」とは思えない。だから、「坊や、そっちはどうだい?/どんな感じだい?」という「青春狂走曲」とはまた違った意味を帯びた問いかけに、私たちはどう答えていいのか窮してしまう。つい、うなだれてしまう。私たちは「うまくやっている」だろうか?

アルバムの中でとりわけ光っているのはやはり、tofubeatsによるリミックスが先行シングルとして出された「ロックンロール」だ。シンプルなロックンロールを奏でてきた曽我部恵一BANDが、ちょっと荒削りなシンセサイザーの音が鳴り、ハウス・ミュージックの四つ打ちビートが支配するこの曲に「ロックンロール」という曲を名付けてしまう、その乱暴なまでに転倒を試みるアティチュードに舌を巻く。ロックンロールは昔、ダンス・ミュージックだったのだ。みんな、ロックンロールで踊っていた。そんな半生記ぐらい前のことへ思いを馳せさせる曲だ。頭に浮かぶイメージをそのまま言語へトレースしたような、何を言っているのかわからない歌も、やはりロックンロールならではなのだ。


こんなことを言ったら見当違いだと怒られてしまうだろうが、「満員電車は走る」はすごく前野健太っぽい。語るような、字余りの歌い方や、ある種「私小説的」な歌詞(この言い方はあまり好きではないし、正しくもないが)。「アイデンティティを持つこと」がむやみやたらと求められ、「私はこういう人間です」と自ら説明せねばならない必要性に駆られる現今。バイトの面接を受ける女の子は「ねえ、面接官さん教えて/私が誰だか教えてよ」と問いかける。


他にも切々たる歌唱が感動的なカントリー・ソング「兵士の歌」、スタジオでテープレコーダーを使って録音したような荒々しい「胸いっぱいの愛」、幻想的でダビーなレイドバック・ソング「サーカス」、ノイ!っぽいミニマルな「ポエジー」等々、傑作が並んでおり、書ききれない。

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…などと、批評的言説とは程遠い、直情的でまとまりのない感想を書いてきた。でも、私は上の文章で「感想文が悪い」などと言いたいわけではなかった。作品に対して自分の言葉でもって、やんややんやと言葉を投げかけることはとても意味あることだし、そんな言葉が無くてはまったくもって面白くない。

この『曽我部恵一BAND』というアルバムは、果てしのない強度と必然性と、何より恐ろしいほど具体的で、現実的で、問題含みで、聴き手の想像力を問うてくる言葉と音が詰まっている。一方で悲しみが蔓延している。一方で生きる喜びが刻まれている。もう一方では、空虚さが場を占めている。複雑に入れ替わり立ち代わり現れる感情の機微のテクスタイルこそが人生であり、生活である。この作品はそれを写しとっている。

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