2012年4月23日月曜日

パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』(1987)


観た映画のことも、少し書いていこうと思う(基本的にはネタバレ)。

パーシー・アドロン監督『バグダッド・カフェ』を観た。なんとなく、観る機会を逸していた作品の一つだが、TSUTAYAがこれのDVDを大量に入荷していてやたらめったら推していたので、そのマーケティングに乗せられて借りてきたのだ。

非常に面白く、観客を飽きさせない展開で、ジャスミンがバグダッド・カフェの「住民」たちと打ち解けていく様や、感動するといえばする。また、冒頭の涙を流すブレンダとジャスミンが出会う場面は名シーンとしかいいようがない。そのハートウォーミングな物語内容や、市井の人々を巧く描いた脚本や演出が当作を名画たらしめている所以の一つでもあるのだろう。

しかし、ストーリー的な詰めの甘さがかなり歯がゆい(これは最早悪口ではあるが、ジャームッシュとヴェンダースの映画を足した感じが拭えない。皮肉なことに、Amazonで「バグダッド・カフェ」を検索すると、『パリ、テキサス』も引っかかってくるのだ(笑))。それは、わざとやっているようにも思える。終盤、「家族同然」の妙な色気を持った彫り師デビーがバグダッド・カフェを去ろうとするシーン、あるいはルーディ(ジャック・パランスの名演! というかこの映画の役者たちは本当に素晴らしい)がジャスミンへ求婚するラストシーン、あるいはジャスミンの夫の行方などにそれが顕著で、何かしらバグダッド・カフェという共同体の崩壊を暗示しているとも思える。何というか、後半は不穏な空気が出ているのだ。まるで、バグダッド・カフェの幸福な時間は、ジャスミンのビザが期限切れとなった時点で終わってしまっているかのような。そう考えると、その後の展開(ジャスミンとブレンダの再会など)は虚しささえ感じられる。その虚しさとは、懐旧のあの甘い感覚を伴っている。だから、バックパッカーが中空へ放り投げられたブーメランは手元へ回帰せず、貯水タンクにぶつかって落下してしまうのだ。楽しく慣れ親しんだその反復的生活の終わりを巧く象徴しているシーンだ。

映像的には柔らかく、そして少しサイケデリックな光の使い方、ザラついてカラッとした映像感覚が全編を覆っており、非常に格好良い(なぜ、『バグダッド・カフェ』は夜のシーンを殆どと言っていいほど描かないのだろうか? それはやはり日光を、当作が描いているからだろう)。しかし、観客を置いてけぼりにする序盤のジャンプカット、ちょっとした早回し、その他映像的実験や、後半のミュージカルシーンはただやりたかっただけのようで、必然性が感じられない。いや、その必然性というものを感じさせないとっちらかった映像感覚、易々とメジャーな感覚に回収されないアマチュアリズムこそが『バグダッド・カフェ』の魅力なのかもしれないが。

さて、不思議なのはルーディの描いた二つの光が差す絵画である。果たして、あれは一体何なのだろうか? 興味の尽きない映画である。

あ、今作を語る際に外してはならない音楽について語るのを忘れてしまった。それはまた今度にしよう。


0 件のコメント:

コメントを投稿